あたしが眠りにつく前に
それから珠結の家の近所に入った頃には、穏やかな会話に落ち着いていた。くすんだ白壁の二階建ての建物の前に着くと、二人は歩みを止める。ここが珠結の住む家だ。
名称は‘コーポ鳥山’だが、壁に書かれた文字は部分的に剥げて‘コーノ烏1’になってしまっている。新婚または子宝に恵まれない夫婦にとっては縁起が良い感じだが、築40年のこの古物件に越してくる人はほとんど皆無だ。
「じゃ、また明日な。ちゃんと飯食ってから寝ろよ」
「了解っ。今日もお疲れ!」
階段を1階分上って部屋のドアを開ける時、下方から背中に視線を感じた。帆高は毎日、珠結がちゃんと家に入るのを確認するまでその場を去らない。
振り返って軽く手を振ってから中に入ると、自転車の走り出す音が聞こえた。静かに外の通路に出ると、帆高の小さくなっていく後ろ姿が見える。完全に見えなくなるまで、珠結は薄暗い闇に染まった道を見下ろしていた。
帆高の家は高校から自転車を‘漕いで’片道20分の場所にある。帰る方向は全く同じではなく家同士は結構離れている。珠結の家に寄ると自分の家に着くまで35分かかり、かなりの遠回りになる。
しかも自転車なのにあえて引っ張って歩いていることも、大きなタイムロスの一因だ。一年前までは人目を盗んで二人乗りをしていた。しかし道中に珠結が眠気によって落ちかけるようになったため、この方式を取るようになった。
さすがにこれ以上は迷惑がかかると一緒に帰るのをかつて何度も辞退したが、意外にも有無を言わさず押し切られた。結局今日まで、そのご厚意に甘えている。
当たり前のように定着してしまったこの習慣。だからこそますます言うタイミングを掴めないでいる、『ありがとう』のたった5文字の言葉。嫌というほど実感している己の意地っ張りさが無ければ、容易く言えるというのに。
だから…せめてできることとして、見送りだけでもさせてほしい。それが自己満足に過ぎないと分かっていても。
空を見上げて真っ先に見つけた一番星は、帰りに通ってきた路地に立つ電柱の真上にあった。
『どうか今日も帆高が無事に家に帰り着きますように』
珠結は小さく輝く光を見つめながら、そっと祈りを捧げた。
名称は‘コーポ鳥山’だが、壁に書かれた文字は部分的に剥げて‘コーノ烏1’になってしまっている。新婚または子宝に恵まれない夫婦にとっては縁起が良い感じだが、築40年のこの古物件に越してくる人はほとんど皆無だ。
「じゃ、また明日な。ちゃんと飯食ってから寝ろよ」
「了解っ。今日もお疲れ!」
階段を1階分上って部屋のドアを開ける時、下方から背中に視線を感じた。帆高は毎日、珠結がちゃんと家に入るのを確認するまでその場を去らない。
振り返って軽く手を振ってから中に入ると、自転車の走り出す音が聞こえた。静かに外の通路に出ると、帆高の小さくなっていく後ろ姿が見える。完全に見えなくなるまで、珠結は薄暗い闇に染まった道を見下ろしていた。
帆高の家は高校から自転車を‘漕いで’片道20分の場所にある。帰る方向は全く同じではなく家同士は結構離れている。珠結の家に寄ると自分の家に着くまで35分かかり、かなりの遠回りになる。
しかも自転車なのにあえて引っ張って歩いていることも、大きなタイムロスの一因だ。一年前までは人目を盗んで二人乗りをしていた。しかし道中に珠結が眠気によって落ちかけるようになったため、この方式を取るようになった。
さすがにこれ以上は迷惑がかかると一緒に帰るのをかつて何度も辞退したが、意外にも有無を言わさず押し切られた。結局今日まで、そのご厚意に甘えている。
当たり前のように定着してしまったこの習慣。だからこそますます言うタイミングを掴めないでいる、『ありがとう』のたった5文字の言葉。嫌というほど実感している己の意地っ張りさが無ければ、容易く言えるというのに。
だから…せめてできることとして、見送りだけでもさせてほしい。それが自己満足に過ぎないと分かっていても。
空を見上げて真っ先に見つけた一番星は、帰りに通ってきた路地に立つ電柱の真上にあった。
『どうか今日も帆高が無事に家に帰り着きますように』
珠結は小さく輝く光を見つめながら、そっと祈りを捧げた。