あたしが眠りにつく前に
 クシュクシュとスポンジにたらした洗剤が泡を立てる。はじけて、壊れて、消える。儚い泡。彼女の姿に重なって、皿にこすり付けるのがためらわれる。帆高はシャツの袖で目元を擦った。

帰郷が近いからか、感情が過剰に高ぶっているらしい。叶うなら今すぐにでも、1秒でも早く。深呼吸1つしてから、スポンジで油分を拭っていく。どんな汚れも、綺麗さっぱりと落としてしまう透明な水溶液。

 しかし心の汚れは何を使っても落とせない。たとえそんなものが存在するとしても、断固として使わない。なぜなら? 自分にとってその汚れは自分そのものなのだから。

 帆高は思う、自分の心は汚れたゆえに狂っているのだと。唯一で最大の恐怖の根源は、その欠陥品(こころ)を根城にして取り付いている。誰も知りはしない、思いもしない。

 人は言う、一之瀬帆高は強くて非の打ち所が無い奴だと。そう美しく見えているのか、耳にした時は込み上げる笑いを押さえ込んだ。本物を知らなければ吐ける台詞だ。同時に安堵もする。

人の目を恐れるからではない。どう思われたって気にならない、特定の人物以外のその他大勢なら。ただ揉め事が起きると面倒くさいから、好んでまで針の筵にいたくないから好青年でいる。

 人として何かが欠け、冷淡だと知っている。昔の自分とは大違いで、自身にも予想できなかった。全てはあの日から始まり、変貌した。

それから10年以上の長きに渡って毎日寝ても覚めても、帆高はたった一つの恐怖に脅え続けている。弱くて脆い心はいつだって、普通という名の鎧を纏う。



 ***



 電車を乗り継ぐこと3時間、帆高は2ヶ月ぶりに故郷の地に降り立った。駅前の商店街はシャッターが目立つようになってきたものの、家事に勤しむ主婦の姿がちらほら見える。

一方で子供や若者の姿は無く、この地に年々進行する少子化と過疎化に胸がチクリと痛
む。自分もその一端なのだから。

 帰郷して真っ先に向かったのは実家。インターホンを押せば母が出迎えてくれた。父は茶の間でテレビを見ていて、帆高に気づくと「おう」と声をかけた。

両親と自分しかいない家の中が広くがらんとしていた。3人暮らしは10歳の時からのステータスだったのに、妙に静かに感じられた。前回の帰郷が盆期間で姉も帰省し親戚も集まってにぎやかだったため、一塩そう感じるのだろう。

 温かい緑茶と茶菓子の煎餅をつまみながら互いの近況話に花を咲かせていると、塚本との約束の時間があっという間に迫ってきた。

「気をつけて」

 両親が玄関まで見送りに来て、母には手土産を渡された。会ったばかりなのに、彼らはいつも嬉しそうに出迎えてくれるし、滞在が長くとも短くとも名残惜しそうな顔をしてくれる。

自分が遅くにできた子供であるのと、幼い時は非常に気を揉ませた過去があるのだから向けられる愛情が一通りでないことは身に染みて感じ取っている。
< 214 / 284 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop