あたしが眠りにつく前に
 塚本との待ち合わせ場所は、駅前にある町唯一の喫茶店だ。扉を開けばカラカラと鈴が鳴った。20席程の狭い室内には老年の店主以外には誰もいなかった。帆高は窓側の席に座って、ブラックコーヒーを注文する。

約束の時間までは15分ある。帆高は鞄に入れていた文庫本を開いた。先日買ったばかりのこの小説は、読み返すのは3度目になる。良い本は短期間に何度読んだって飽きは来ない。

 ページを捲る音とクラシック調のBGMが重なって、心地よい旋律を奏でる。ゆえに鈴の音にもコーヒーを注いでいた店主が出入り口に顔を向けたのも気が付かなかった。

テーブルが振動し、コンコンと軽い音が鳴る。栞を挟んで顔を上げれば、久方ぶりに見る顔が

「よっ! 本の虫!! 久しぶりー」

腹立たしいまでに朗らかにくしゃりと歪む。

「久々に会う友人を開口一番に虫扱いとは、その無神経さは今も絶好調のようだな。なあ?」

「いだだっ!! 褒めてるんだって、離してー! 抜ける、ハゲるうぅ!!」

 帆高は掴んでいた髪を離し、掌を確認する。塚本は唸りながら引っ張られていた部分を押さえる。加減をしていたから抜けていないのだから、さっさと立ち直れ。日本男児なら、少しの痛みぐらい笑い飛ばして見せろ。

紙ナプキンで手を入念に拭き、お冷を一口飲む。グラスを置けば、塚本が恨めしげに頭をさすっていた。

「うう…。手荒い歓迎、ありがとう。こんなことするの、俺にだけだよね?」

「安心しろ。どんなに苛立たしく思っても、お前以外には手を出してない。ウザさと腹立たしさは、お前が僅差で暫定トップだ。特定の一人だけって決めとかないと、きりが無いからな」

「…一之瀬は、どういう環境で大学生活送ってるの?」

 ようやく塚本が両手をテーブルに置いた所で、帆高が頼んだコーヒーとサービスの品々が乗ったプレートが置かれた。塚本の前にもお冷と紙ナプキンが置かれる。  

「あ、まだモーニングやってるんだ? じゃあ俺、アイスコーヒーで!」

 店主は無言でカウンターの奥へ引っ込んだ。開店時刻から昼前までの時間帯は飲み物を頼めば自動でトーストとゆで卵、サラダとフルーツが付いてくる。店主は中京圏出身らしく、喫茶店をオープンした30年以上前からこのモーニング制を続けているという。

コーヒーとトーストの香ばしい香りは、喫茶店の象徴だと思う。閑古鳥が鳴きそうな店でも店主はコーヒーに格別な思い入れを持っており、良品質の豆の使用と挽きたてを貫いている。

 店の数少ない常連である父に教わらなければ、古びた外観から判断して入ろうとは思わなかった。中学生の時に父に連れられて入店したのを皮切りに、月に1度は立ち寄るようになった。高校生になれば週に1度と、頻度が増した。

 よく一緒に訪れていた相手は、ココアやミックスジュースなど帆高には縁の無い飲み物を注文していた。一度だけ帆高が頼んだものを飲ませてみたら、悶えていたっけ。

その相手が遠くに行ってからは暫く一人で通っていたが、気まぐれに塚本を誘ったら彼も常連化してしまった。受検シーズンには他にお客がいないのをいいことに、二人揃って大分お世話になったものだ。

それ以来の味わいも香りも変わらなくて、極上に旨い。一度で半分近くを飲んでしまった。
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