あたしが眠りにつく前に
「はー、やっぱりここは落ち着くなー。地元なのに、こんないい店があるなんて知らなかったから、教えてもらって良かった。来る度に思うんだよ」

 店内を見回して、塚本が感慨深げに呟く。

「俺は後悔したぐらいなんだがな。お前が来るようになって、店の雰囲気が一変した。マスターは何も言わないが、お前が来ると内心『やかましいのが来やがった』って舌打ちしてんじゃないか」

 塚本が腰を微かに上げて、店主のいるカウンターをそっと窺い見る。店主は仏頂面で沈黙したまま、アイスピックで氷を砕いている。見てはいけないものを見たかのように身震いしたので、帆高はサラダのドレッシングにむせそうになった。

 座り直して動揺からか、塚本は水のグラスを両手で挟んで水面を小刻みに揺らす。からかいすぎたか。帆高はレタスを喉の奥に追いやってからフォークを置いた。

「冗談だ。マスターが本当にそう思ってるんなら、とっくにお前は店から叩き出されて、出入り禁止になってたはずだ。馬鹿でかい声で喋ってた高校生も、いちゃもんつけてきた危なそうな人も、容赦なく店外追放してたからな。俺もお前に紹介した責任があるから、始めは肩身の狭い思いをしてたんだ」

「…ねえ、俺ってそんなにトラブルメーカーっぽい?」

「地声が大きいから、周囲に響きやすいってのは気づいてないのか。あと話してる最中の声の強弱が激しいし、リアクションも大きい。静かな空間には不釣合いな人種だろうな。でも追放組と比べれば常識は分かってるし、許容範囲内だとは思う」

「うん、もういいや。どっかで分かってたことだから。じゃあさ、何でそんな俺にここを教えてくれたのさ。お気に入りの場所なんだよね?」

「魔が差した」

 帆高はプレートの端に卵をぶつけて、生じたヒビに指を立てる。半分ほど剥いた所で塩を一つまみ振り掛ける。

「…それも冗談だったら、嬉しいかな」

「どっちだろうな。好きな方で取れ」

「冷たいなあ。一之瀬って真顔でシャレにならない冗談言うから、おっかないんだよ。寿命、10年は縮んだ気がする」

「大げさだな。そのチキンな心臓でも、3年が妥当だろ」

 一之瀬節は現役だね。塚本は今度は拗ねるのでもなく、目を細めてうっすらと笑む。何故だか、安堵したかのように。

帆高が些細な違和感を覚えていると、塚本のモーニングセットが到着した。店主は「ごゆっくり」の一言も一礼もなく踵を返す。いつも挟んでいく伝票を置いていかなかった。珍しく忘れているのだろうか。

「うん! おいしい!!」

 斜めに三角に切られたトーストをかじる塚本の顔は、通常の暢気なものに戻っていた。市販のパンをどこにでもあるトースターで焼き、業務用のバターを乗せただけ。家でも同じものを口にできるのに、尚一層美味に感じるのも喫茶店の独特の空間が持つ魔力のためか。

「使わないなら、それもらっていい? 俺、苦いのダメでさ」

 アイスコーヒーに自分の分のガムシロップとミルクを投入していた塚本は、帆高のコーヒーの受け皿に手付かずのまま残されているシュガースティックとミルクを指差した。
< 216 / 284 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop