あたしが眠りにつく前に
 「いつかな」と言外のNOを表示すると、塚本は「分かった!」と笑う。いや、お前は分かっていない。でもあえて訂正はしない。知らぬが花、まさしくだ。

今更ちゃんと上手くやっているのか、不安になってきた。その疑惑がある以上、自分が塚本の友人と知られたら何かありそうで、彼のテリトリーを訪れるのは抵抗がある。

「幸せそうで結構。羽目を外して愛想尽かされないようにしろよ。せっかくのデート、存分に楽しんで来い。…どうしたんだよ、間抜け面して」

「いや…一之瀬のことだから『デートは口実で別れ話を持ち出されるんじゃないか』とでも言うんじゃないかと覚悟してたから。そんな好意的なコメントが来るとは思いもしなかった」

「我ながら性悪だと自覚してるけど、分別ぐらいはある。遠くて離れて会いたい人に会えるのは幸せなことだ。それを冗談のネタにして踏みにじるほど、俺は腐った人間じゃない。同じ気持ちは痛いぐらいに分かってるんだから、心から良かったって思ってる」

 照れ笑いした塚本の表情が急激に萎んでいく。また、言葉の選択を間違えた。付き合いがそれなりに長くなると、気が緩みがちになってしまう。

塚本は遠慮を伴って会いたいと言ってくれたのではない。喜ばしい明るい話題なのに、不用意な一言が水を差した。自分で言っていた幸せを、自分が台無しにした。帆高が抱えているものは、塚本には関係ないのに。

 帆高の心情を知ってか知らぬか、塚本の方からそれを切り出した。

「永峰さんは…相変わらず?」

「電話は来ない。だから良くも悪くもなく、現状維持だ」

 塚本のアイスコーヒーの氷がカラリと軋む。扉の鈴はぶら下がって沈黙したままで、店主もカウンターから姿を消していられる。

「逢いたい。せめて顔だけでも、もっとと思うけど、約束だからな。目の前にいるのに、いない。もどかしくて、やるせなくなる。どうにかなるのでもないのに」

 「大丈夫だ」なんて気休めも「辛いよな」なんて同情めいた慰めも、帆高は必要としていない。薄っぺらい紙の重みしかない言葉は、何の価値も持たない。

似たような状況にも陥ったことのない他人の「気持ちは分かる」など、所詮他人事だと憐れんでいるだけのくせに。ささくれた心は、誰にもこの気持ちは分からないとうぬぼれられる。

 自分よりも苦しい想いを携える一之瀬には、「分かる」と言える権利がある。反対に塚本は有しない。まだ恵まれた人間がより恵まれない人間の気持ちなど、分かりはしない。想像や自分に置き換えた仮定など、結局は無知と一緒だ。

 一之瀬の気持ちは分からないのに、他人事なのに他人事だとみなせなくて。物理的にも精神的にも遠く離れている彼らを思うのは、偽善者そのものじゃないか。

「何でお前がどんよりした顔するんだよ」一之瀬は微笑んでいた。

「お前がどう思ってるか知らないが、俺は大丈夫だ。いないけど、いるんだからな。それだけで、いつまでも気長に待とうって思える。あの人みたいに。振り回されるのも、やきもきさせられるのも何度も経験して乗り越えてきた。先々もぶち当たるだろうって覚悟はしてた。この状況だって、その1つにすぎない」
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