あたしが眠りにつく前に
 帆高は扉のノブに手をかけ、振り返った。

「ああは言ったが、今はお前をここに連れてきて良かったと思ってる。人と一緒に行くのに慣れきってたし、自分の好きなものを好きと言ってもらうのは悪くないからな。今日は塚本と話せて良かった。…ありがとな」

 鈴の音の後に、2人分の気配だけが残される。新聞を捲る音が一度もしないのは、気づいていた。

「礼を言うのは、こっちなのにな。男前なんだから、一之瀬は」

 塚本はささやかに祈る。早くあの二人の再会が叶うように。ひたむきな彼が、大丈夫でいられるようにと。



 ***



 病院にも独特のにおいは存在する。しかし喫茶店とは違って、馴染みはせれども好きにはなれない。といっても、無臭に近いかもしれない。行きがかりにナースステーションに目をやれば、顔見知りの看護師と目が合って薄く笑いかけられた。

向かう場所は、いつだって同じ場所。目を閉じていても、辿り着けるだろう。扉の前にてノック、深く息を吸って吐く。部屋の奥へと進んで回れ左、ひかれているカーテンを開ける。

 そこには、一人の少女が眠っていた。

年齢を鑑みれば女性と呼べるのだが、見たところ十代半ばの幼げな印象を受ける。まるで、彼女だけが時が止まってしまったかのような。

 窓ガラスを10cm程開けば、秋風が前髪を揺らした。少し冷たくなってきた。彼女の頬にも吹き付けるが、彼女は目を閉じたまま微動だにもしない。

かぶさる布団は緩やかに上下し、同じリズムで漏れてくる呼吸は口元に耳を寄せなければ聞こえてこない。

 一言で言えば、穏やかな寝顔。楽しそうな夢を見ていると言える程ではないが、あらゆる苦しみや悲しみから解放されているかのよう。悪夢にうなされているような苦悶の顔でないことには、救いを感じるべきか。

こうして見れば、心地良さげに昼寝の時間を漂っているようにしか見えないのに。

 帆高は彼女の左手を両手で包み込む。指は小枝のように細く、少し力を入れたら簡単に折れてしまいそうだ。袖から覗く腕は顔と同じく、透き通るように白い。大学生になってからは関わりが減ったチョークの白が頭に浮かぶ。

 全く力の入っていない手はダラリと重い。でも、伝わってくる体温はこのうえなく温かい。君はゆめゆめ疑いなく、生きている。

「珠結…」

 名前を呼んでも何も変わらない。声を聞けなくなって、千もの朝と夜が上空を過ぎ去っていった。珠結にとっても同じこと、眠っている間はこちらの声は一切届かないと言っていたのだから。

まだ、戻らない。君は今、どこにいるのだろう。懲りもせず、君の名を何度でも呼ぶ。

「やっぱり、来たのね」

 左方からの声の主は花が生けられた花瓶を抱え、帆高を凛と見下ろしていた。
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