あたしが眠りにつく前に
「珠結!」

 名前を呼んでも、珠結は振り返らなかった。前方にいるのは間違いなく珠結だ、聞こえていないのか?

不審に思いながら近づいていけば、珠結の頭が僅かに傾いていた。落ちつきかけた心臓が再び早鐘模様に打ち鳴らされ、背中を冷や汗が伝っていた。



 珠結を連れて病院に戻り、珠結が眠ってしまったと幸世に伝えた。貴女の大事な娘をほったらかした間にと、偽り無く打ち明けた。深く下げた頭に、勝ち割られるぐらいに強烈な拳骨が落とされた。

「珠結に何か起きてたら、あんたを許さなかったわ」

 制裁よりもその冷然とした言葉の方が堪えた。任せられると信頼し、目に入れても痛くない愛娘を自分に委ねてくれた。そのかけがえの無い信用を裏切った。どんな理由があっても、許されはしない。

思うように動かせない体の珠結が、もしも誘拐されたりや傷つけでもされていたりしたら。それこそ、この命をもって詫びても何の足しにもならない。

「また当分起きないだろうから、帰りなさい」

 それなのに、幸世は帆高を責めることも罵ることもなかった。それが却って、断腸の思いがして心が痛かった。二度と珠結の前に現われるな。暗黙の通達なのかと、思わず珠結の顔を見納めのように焼き付けようとしてしまった。

「大変だったわね」

 その言葉に振り向けば、シッシッと手を振られた。「早く家に電話しときなさい」と怖い顔で指示され、尋ねる間もなく病室から追いやられた。知って、いるのか。

珠結を一人にした理由は話していない。きっと母が息子に繋がらないから、一緒にいるはずの彼女に連絡して事情を話したのだろう。母だって自分が珠結に隠していたように、身内の恥を知られたくなかっただろうに。

 電源を入れて20件以上の着信履歴に唖然とし、かけ直せば怒鳴り倒された。家に帰っても般若と化した母に絞られ、帆高が祖父宅に電話した後で「帆高はもう俺のものだ。今からこっちに来る。養子手続きの準備をしとけ」と得意げに自慢してきたのだと聞かされた。帆高は腹立たしさを通り越して、呆れる他無かった。

帆高が屋敷に監禁でもされて戻って来ないのではないかと、母は混乱と動揺のあまり気絶しかけたという。何かの間違いじゃないかと幸世に電話して「二人は出かけていて、まだ戻って来ない。珠結を放置して向かったなんて、あり得ない」と言われて、ようやく気を落ち着けたらしい。

 数日後に帰って来た父にも独断の行動を叱られたが、助かったと礼を言われた。足止め作戦は、きちんと意味を持ったようだ。向こうで何があったのかを、父は教えてくれなかった。ただ一言、「もう大丈夫だ」と。

「あいつはこの先、決して自分達に介入してこない。だから安心していい」父は短期間で一気にやつれていつつも、憑き物が落ちたような清々しい目で微笑んだ。数十年経って自分が一人前の大人になっていたら、思い出話として全てを話してくれる日が来るだろうか。

 一之瀬家に付きまとっていた脅威の影は、完全になぎ払われた。電話の音にびくつき、表示された番号に一喜一憂することも無くなった。

父はとうとう実家と完全に縁を切れ、帆高も嫌悪しか抱けない祖父だった人の執着から解放された。
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