あたしが眠りにつく前に
「最後の判定結果が出たのよ。それで昨日、こっちに移って来たの」

 扉の閉まった病室の前に来ると、幸世はようやくまともに帆高の瞳を見据えた。

「え…? 判定って、何の」

「少しでも長く側にいられるようにって、病院のせめてもの配慮よ。泊り込みも許可されてる。その時が来るまでに、一分一秒でも長くね」

 帆高の問いに答えず、幸世は扉を開いた。途端、帆高は瞳を見開いた。目の前の光景にではなく、耳に飛び込んできたものの正体に。

 医療ドラマで聞いたことのある、プシュッと空気が漏れるような無機質な音。祖母が亡くなった時も、聞いたことは無かった、あの。解き放ちそうになった絶叫を、必死で喉の奥に押し返す。

視線を徐々に左にずらせば、横たわるか細い少女のような女性。初めて来た病室なのに、一目で珠結がそこにいることが分かった。一般的な団体部屋には不可欠なカーテンは引かれていなかった。なぜか? プライバシーを守る必要が無いからだ。

どうして? プライバシーを侵害する部外者がいないから。室内にベッドは珠結が眠る一床しか存在していなかった。

「ボサッと突っ立ってないで、さっさと入りなさいよ。他の患者も通るんだから、見えるじゃないの」

 枕元に立つ幸世は、そっと珠結の前髪を掻き分けて額を撫でた。見下ろす幸世の所作と眼差しは聖母のように慈しみと愛おしさを携えていた。

 これは、悪夢なのか? 扉の取っ手を握る感覚がなく、閉まる音も遠くから聞こえているような気がする。帆高は扉を閉めた後も、その場に立ち竦んで珠結の元へと一歩を踏み出せないでいた。

「早く」

 促され、ようやく足が動く。その足も足自体が鉛でできているかのように重く、サッカー部だった時にトレーニングで付けていた錘の重さなど0に等しい。

幸世の真向かいに立ち、彼女の目線の先と同じ対象を見下ろす。唇を噛み締めていると、上唇に生暖かさを感じた。拭うこともなく、むしろ帆高は下唇への圧迫を強めてすらいた。

 前回と前々回の面会日、帆高はどうしても外せない用事が入ってしまっていた。どんな理由があろうと、幸世はそれ以外での面会を許してくれない。また、2ヵ月という長い時間を待たなくてはならない。

彼女なりに、帆高の珠結への依存を抑えようとしていたのだろう。特定の日にちを絞ることで、帆高の日常から珠結を最低限に切り離すかのように。

それでいても、帆高を占めている珠結の存在は大きいもので、会っていなくとも言葉を交わしていなくとも変わらない。むしろ強まるばかりで、幸世は常に危惧していた。

「珠結…?」

 珠結の無反応は、前回会った5カ月前と同じで。違うのは呼びかけた帆高の声が蚊の鳴くように消え入りそうなものであるのと、一目瞭然で知らされる珠結の置かれた現状の変化。
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