あたしが眠りにつく前に
 珠結の口には太いチューブが通され、外れないようにとテープで固定されている。その先に繋がっているのは、心電図のモニターが取り付けられている灰色の四角張った機械。病室に入った時に聞こえてきた音は、それから発されていた。

人工呼吸器。実物を目の前で見るのは初めてだった。祖母も最期は病院で迎えたが、延命治療を拒んで眠るように逝った。機械に縛られることもなく、痛みも苦しみも感じていなかったかのような安らかな顔をしていた。

 だからこそ、祖母とは対照的なこの状況に帆高は頭が付いて行けずに呆然と見つめるしかできなかった。嘘だ、夢なら覚めてくれ。だが、脳裏で酷く冷静な自分の声がした。これが現実だと。

「顔、まだ綺麗なものでしょう。でも寝巻きの下は酷いものよ。寝返りすら打てなくなったから、床ずれだらけで。痛くてたまらないだろうに、うめき声一つ上げない。ううん、むしろその方がいいのかしらね。せめて痛みを感じていないことを祈るしかないわ」

 幸世の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。口だけでなく、他にもいくつかのチューブが珠結の体に繋がれている。空気の漏れる音は一定のリズムを持って繰り返される。その音が、珠結本人からのものではないことが信じられない。

 蒼白な珠結の手首には、青い血管が浮き上がっている。面会に来たらまず最初に握る手を、今日は触れられずにいて拳を握るばかりだ。解けば、痙攣が隠し切れなくなる。

「先月の半ば、急に呼吸が止まったの。すぐに手術室に運ばれたけど、どうしようもなかった。脳細胞が完全に死滅してた。原因は不明、定期検査には異常なかったってのに。どうせそんなことだろうと思ってたけど、何となく。…つまりは帆高、あんたなら言わなくても分かるわよね」

 顎をドロリとしたものが伝った。その雫が床に落下したかなど、どうでもいい。「帆高」その声にようやく唇が解放された。

「何が、ですか」

 分かってるくせに。幸世の目はそう諭していた。逃げるなと責めてもいた。

「いや、言わないでください。知りたくない、聞きたくない。俺は…」

 耳を塞ごうとする暇を与える間もなく、幸世は目を細めて非常に簡潔な言葉(じじつ)を口にする。

「珠結は、死んだわ。死んでることになったのよ、それで」

 死。その一音が帆高を貫いた時、帆高の中では何かが砕け散った感覚に陥った。それはとても、何よりも大切で失いたくないと抱え込んでいたものだったはずだった。正体が何だったのか分からぬまま永久に無くしてしまったのだと、これだけは分かっていた。

 帆高の中途半端に上がっていた腕が、重力に従ってダラリと下がった。深く俯いたその顔は、幸世の位置からでは判別できなかった。しかし一瞬、口元の赤黒い染みは目に映った。しかし、帆高の心にはもっとどす黒い液体がドクドクと垂れ流されているのだろう。

自分がこれからすることは、その見えない血を止めることになるのか。はたまた増幅させることになるのか。それでも、しなくてはならない。彼には全てを伝えておかなくてはならない。きっと、彼のためにも自分のためにも。…この子のためにも。そう、望んでいることだろうから。

 幸世は椅子に置いていた鞄から取り出したものを、帆高に差し出した。帆高に見えるように、顔の真下へと。

「あの子からの、手紙よ。あたしに向けてのだけど、あんたにも読んでもらった方がいいんじゃないかと思ってね」

 帆高は逡巡したあげく緩慢な動きで受け取る。その水色の封筒を開くと、中には折りたたまれた一枚の便箋と一枚のカードが入っていた。
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