あたしが眠りにつく前に
 幸世は帆高を睨み返し、低い声で言い返す。

「最後まで読んでないのね。もう一度、読み直しなさい」

「理解しています。でも幸世さんは脳死は人の死だって認められるんですか。心臓は動いているのに、脈を打っているのに。…体だって、こんなに温かいのに」

 帆高はようやく珠結の手を握った。間違いなく、温かな熱が伝わってくる。心臓の止まった死者にはない体温を、珠結は持っている。死者の手の冷たさと、いくらさすっても温まらないことは身を持って知っている。

「俺は…珠結が死んだとは思えません。いくら脳死だと判定されても、100%意識が戻らない訳ではないでしょう。植物状態の場合よりも確率はグンと下がりますが、長い年月を経て戻ってきた人はいます。些細な可能性ですが、0じゃないんです。幸世さんはたとえ希望が薄くても、賭けてみようとは思わないんですか…?」

 会いたい。愛おしく思っているのなら、願って当然なのだろう。死んだと言われたって、生きているのだと信じていたっておかしくないのだから。珠結はどう見たって、ただの死体には見えないのだから。

まだ、望みはある。いくら珠結が延命を望んでいないとはいえ、すんなりと従って生命の糸を断ち切れるものか。繋ぎとめておくことはできる、それなのにむざむざ完全なる死者の仲間入りにさせて良いはずがない。

 君が、本当にいなくなってしまう。

「でも、大抵の脳死患者は1週間ほどで心臓が止まるって言われているわ。1年以上もったケースも世界で数件程度。そんなハイリスクな賭けに臨んだあげく、こんなことなら望みどおりにすべきだったと後悔しても遅いのよ? それに、帆高。あんたは無視できる? あの子の願いを。『これ以上、眠りたくない』って、心の叫びを聞かなかったことにできるっていうの?」

 唇の出血は治まり、流れた血は乾いて皮膚に張り付いていた。とっくに変色もしているだろう。それでも帆高には拭き取るという思考はなかった。

「あんたが言ってるのは、珠結の気持ちを無視した自分さえ良ければいいっていう、身勝手なワガママよ。頭を冷やしな」

 二の句が告げないでいる帆高を残して、幸世は病室を出て行った。珠結の顔が悲しげに見えるのは、ただの錯覚か。元より、何も見えても聞こえてもいないのだから。

 彼女の言うとおりだ。自分が珠結と別れたくない、その一心だった。最優先にしてきた珠結の意志を見ないことにして、自分の主義に反していた。彼女の幸せを支えるのが、自分の喜びであり幸せでもあり自分のためでもあった。

君が望むなら、それに逆らうつもりなんて無かった。それでも、彼女の決断は彼女の幸せと同一なのだろうか。分からない、まだ頭が現状に着いていけていない。気を緩めば吐いてしまいそうだ。

 ぐ、と帆高は口を押さえてしゃがみ込む。ゲホゲホと咳き込んで、今更気づく。呼吸をするのを、忘れていた。ヒュッと不快な音が喉から漏れる。胸に手を当ててゆっくり息を吸い、やっと呼吸の仕方を思い出す。

 そんな中でも、珠結の手は握り締めたままだった。握る力を強めても、珠結は指先ですら握り返してくれなかった。それでも、この温度さえ感じられていられたなら。たとえ永久に戻って来ないとしても、そこにいてくれるだけで。

限界が訪れるその時まで、このままでいてほしいと。生きてほしいと望むのは、珠結への裏切りだろうか。自分で自分の気持ちが分からない。様々な感情がグジャグジャとかき回されて、何も考えたくなる。
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