あたしが眠りにつく前に
 自分の欲望に忠実になって、何が悪い? やはり、珠結には。結論付けかけたところで、手から滑り落ちていた便箋が目に入った。

床のそれは寂しそうで、帆高は手を伸ばしていた。一度読んで中身を知っている。読み直した所で、内容は変わらない。つまりは珠結の意志も変わらないということだ。

痛い、怖い、悲しい、苦しい。だけど。躊躇いはあるものの、帆高は再び珠結の思いと向き合うことに義務感を覚えていた。

 珠結の手紙は至極簡潔でいて、中身は非常に重くて真剣なものだった。

自分にもしも‘その時’が来たら、自分を形成する臓器を可能な限り全てドナー提供したい。珠結は淡々とその旨を書き連ねていた。翼を生やして白いワンピースを着た女の子が微笑むカードの裏は、手紙の内容に忠実に記入されていた。

 項目は3つ。1に脳死の場合、2に心臓停止での場合において何の臓器を提供するかを問う。3は臓器を提供しないという意思表示の確認を求めていた。珠結は1と2の項目に丸をつけ、選択肢で上げられていた心臓や肺など全ての臓器名に丸を打っていた。そのうえ、選択肢の横に設置された括弧内にも全てと記入していた。

最下段の署名は紛れもなく珠結の筆跡で、日付は手紙の文末に記されていたものと同じだった。その日は確か4年前の冬、珠結が一時だが失踪した日。珠結にとっては大冒険だが、帆高にとっては失恋が確定された苦々しい思い出。そして二人にとっては、狂気に孕んだ満月の夜の出来事。

 おそらく家を出る前、母親の目が無いうちに急いで準備したのだろう。具体的にどんな思いでペンを走らせていたのか、書きあがった手紙とドナーカードを眺めていたのか。知る術は無い。

‘死にたくない。永峰珠結として、もっと生きたい。’

‘もっといろんなものを見たい、聞きたい、知りたい。大好きな人達と笑っていたい。お別れなんて、したくない’

‘これ以上、眠りたくない。もう、何もない誰もいない、あの空しい場所を漂いたくない。’

‘でも叶わないのなら、せめて。誰かの一部となって、光の下を生きていきたい’

 帆高の生きる未来に自分はいない。そう、珠結は言っていた。あの時にはすでに、珠結は諦めていたのか。珠結が自分の運命を呪って泣くのを見たのは、あれが最初で最後だった。

それ以後も珠結は記憶を消し去ったかのように普通で、笑っていた。今までどおり、負の感情を露にすることは無かった。ああ、きっと。珠結は手紙を書くことと、あの涙と慟哭で全ての踏ん切りをつけていたのかもしれない。

本当に、これで最後だと。その時が来るまで、笑顔でいようと。

 知り尽くしたいと思っていた。分かろうとしていた。気づいているつもりだった。でも実際は、何も分かっていなかった。

 勝手に人の心を詮索するな。珠結にはくどいまで言い続けて諌めてきた。聞かれてもはぐらかしてきた己にも罪はある。こんな無慈悲な別れがこんなに早く突飛にやってくると知っていたのなら、素直に打ち明けてしまえば良かった。

今度はこちらの番で、手紙に書かれた委細以外での君の思いを詮索してしまう。仕方がないだろう? 尋ねようにも君はいないし、他に方法は思いつかないのだから。

 君はいない。そうだ、本当は随分前から、ずっと。
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