あたしが眠りにつく前に
「口、すごいことになってるわよ」

 いつの間にか戻って来ていた幸世は、仁王立ちで帆高を見下ろしていた。有無を言わさず、白いハンカチを唇に押し付けられた。程よく水で湿らされ、ピリッと痛みが走る。かなり深く傷つけていたようで、血が伝った顎も拭いているとハンカチの片面全体が赤褐色に染まった。

「洗って返す…どころじゃないですね。買い直します」

「いーわよ、どうせそれ100円だし。はあ、派手にやったものだわね。しばらくは押さえときな」

 思い出したかのようにジンジンと疼き出す傷口。つくづく自分は感情が高ぶると痛みを忘れてしまうものだと、前科複数の帆高は溜息をつきかける。

「俺、かなり前から心のどこかで分かっていたんです」

 汚れた面を内に畳んだハンカチに、強く握ったためにグシャリと皺が走る。

「珠結はあの日…珠結が公園で眠ったあの時点で、すでに俺達の手の届かない所に行ってしまってたんだってこと。認めたくなかったんです。あれが最後の別れになるだなんて、あんまりでっ…」

『ごめんな』

 珠結の耳に最後に届けた言葉は、謝罪だった。対する珠結はとても不安げで心配そうな顔をして、自分のことは気にするなと背中を押した。有無を言わさず、そうさせた。

元より疎遠で今は完全に絶縁した親族との、自分をめぐっての内輪もめなど珠結に話せる訳がなかった。心配はもちろん、くだらないいざこざが勃発していると知られるのが恥ずかしくてたまらなかった。

 ほんの一時の別行動ぐらいにしか、思っていなかった。別れとも呼べない、こんな瑣末な形が永別となるだなんて誰が思うだろうか。

たいしたことなどなかったんだ、と珠結の些細でも燻っていただろう心配を取り除きたかった。一向に戻らない俺を待ちながら、母も友人もいない道端で一人眠りにつかせたくなかった。

 どうせ別れるのならば…違う。別れたくなどない。それでも別れが必至だったというのなら、せめてもの願望として。

―――笑顔で、さよならしたかった。

 「またな」珠結が「またね」と返してくれなくなったのは、いつからだったか。‘また’が必ず訪れるとは、言えなくなった。だからか、約束を回避していたのか。

珠結の意図は悟っていた。だけれども睡眠発作で遮断される場合を除いて、‘また’を信じて投げかげずにはいられなかった。毎回珠結は「じゃあね」と手を振って、守れるか分からない約束をしなかった。

 それで十分だった。いつだって珠結は笑ってくれたのだから。

 命の危機にさらされる職業についている夫を持つ妻は、前日にどれだけ激しい喧嘩をしていても翌朝は必ず笑顔で見送るのだという。職業柄、いつ死んでもおかしくはない。元気に家を出て行った精悍な後姿が、白い箱に入った小さな姿になって帰って来ても不思議はない。

男女逆転でも同様であるし、むしろごく普通の一般家庭でもそうあるべきではないだろうか。人の生命など、常にどうなるかは分からない。別れたくない、当然だ。でも、どうせなら後悔のないように。

大好きだと、笑顔を交わせていたら。ほんの少しでも救われるかもしれない。遠からずとも、他人事ではない状況に置かれている。帆高には、思えてならなかった。

 憎悪さえ覚えていた人物によって引き裂かれたような、あんな形の別れなど、後悔しないでいられようか。
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