あたしが眠りにつく前に
「いっそ、見つけなければ良かった。最低なのは、あたしもよ。手紙、見なかったことにしようって何度も思ったことあるんだから。でも、やっぱり応えようって思うのよ。だって、あたしは母親なんだもの。娘の思いを握り潰すことなんてできない。普段は我侭を言わない子が、最後にとんだおねだりをしてきたものね。1枚目の手紙に、2枚目の前置きとして『ごめんなさい』って何度も書かれてた。まったくよ、誰が好き好んで子供の体を刻ませるのを許すのよ…」

 窓から顔を逸らし、幸世は天井を見上げた。その理由に感づいたからこそ、帆高は何も言えなかった。

「先生には、整い次第って言ってある。この後、詳細を話し合うことになってるわ。…その日は、あたし一人が見送るわ。だから、あんたには教えない。もう、ここには来るんじゃないわよ。意味なんて、ないんだから。それと、さっきは『これで最後』って言ったけど、あと一度だけ連絡するわ。来るか来ないか、あんたの好きな方を選べばいい」

 各々の主語が抜かされていたが、帆高には幸世の言っていることは把握できていた。彼女に迷いは無い。必ずそうなるのであって、そうするのだ。自分には、その判断を黙って見つめるしかできない。所詮は、他人なのだから。その事実が、とてつもなく重くて痛かった。

 帆高頷くことすらできず、「そろそろ時間だから」と幸世は通り過ぎて行く。せめて。考えるよりも先に、声が出ていた。

「その日が来るまでに、戻って来てと祈るだけでも…許してもらえますか」

 幸世はかすかに振り返ると、口元だけで微笑った。

「ねえ、帆高。気づいてないだろうけど、今のあんたの瞳、とても見られたものじゃないわよ」

 そこの引き出しに、鏡が入ってるわ。赤い手鏡に映った己は、顔面蒼白でぼんやりとこちらを見つめ返していた。目元は性格を表すかのごとく引きつっていて、指摘された薄茶の瞳は何も変わらず瞬きを繰り返す。そもそも目にささやかなコンプレックスのある帆高は、まじまじと観察したことなどない。

「いつものあんたは、そんな目をしてなかった。一言で言えば…強い、揺ぎ無い光が宿ってた。だけど今は、見る影も無い。でも、まだ消えてはいない。首の皮一枚で繋がってる、そんな感じ。…本当に、分かってないのね」

「死んだ魚の目、そんな所ですか? 自覚、無いですが」

「そこまでは、ね。でも、いずれそうなっても、おかしくなさそう」

 ここで幸世が完全に振り返った。まともに眠っていないだろう、どんよりとした目は尚も鋭さを称えていた。彼女は泣けているのだろうか、唐突に帆高は思った。

言っておかなければ、いけないことがある。幸世は突然に切り出してきた。さっきから、会話のキャッチボールが続かない。お互い言いたいことを言って、実のところ明確な返答は期待していない。それが、丁度良いとも感じてもいるのだが。

「あたしは、珠結の気持ちを優先した。臓器移植を承諾して、あの子から心臓を…生きているあの子の一部を取り出させることを許可した。それはつまり、珠結を完全な死者にするということ。…あたしが、母親のあたしが、珠結を殺すということよ」
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