あたしが眠りにつく前に
 椅子に腰掛け、珠結の手を両手で握る。そして、自分の額へと添える。病室に来たらする、恒例行事のようなもの。とっくに通常とはかけ離れてしまっているが、これだけでも。

繋がれるチューブや機械、静まり返った空間とは不釣合いに、珠結は穏やかな顔で目を閉ざしている。呼吸しているのではない、させられている。それでも上下する胸を見れば、呼吸器の音を遮断すれば、寝息を立てて眠っているのだと錯覚してしまう。

 珠結の顔を眺めるのも、最後。いや、その機会はもう一度あるのだろうけど、これを見納めにしよう。温かな熱、目を凝らさなければ分からないぐらいの微かに赤みがかった顔、躍動する心臓と血管、体内で生き続ける欠片達。珠結の全部が揃っているこの姿を、焼き付けるのだと決めていた。

 こうしている間にも、ひょっこりと目覚めてくれたならば。淡い期待は自身を苦しめるだけだとしても、構わない。帆高は片手は珠結の手を握ったまま、珠結の頭を撫でた。

珠結の髪は生命力に満ち溢れ、ついぞ切られることの無かったそれは足の爪先近くまで伸びていた。艶やかで綺麗なまま、入念に梳かされていて掬えばサラサラとシーツに流れ落ちた。

「約束、覚えてるか確認したよな? 『もちろん』って言ったの、忘れたのか?」

 約束したからには、守る。守れるか分からなければ、最初からしない。それがモットーだったくせに。忘れてないのなら、果せよ。嘘つき。

「戻って、来いよ…! 俺は果すつもりなんだよ。でも珠結がいなきゃ、どうすることもできないんだ。『待ってる』って言ったのは、嘘じゃないんだ!!」

 ここが病院であることは、意識に無かった。荒げた声は室外にも聞こえただろうに、いつまで経っても誰も注意には来なかった。ごめん、違うんだ。帆高の声はさっきとは違う理由で揺れていた。

 こんなのは八つ当たりだ。約束のことなど、もうどうにもならないのだから。珠結が責められることでも、自分が腹を立てることでもない。不履行な約束など、世の中には五万とある。過剰に執着しても、意味などなさない。この苛立ちは、別の所にある。

君を、守れなかった。たとえ時間を巻き戻せても、直接的に救い出す術は無かった。ああすれば、珠結は守れていた。そんな後悔すらできないのが、空しくてお前に何の意味があったのかと打ちのめされる。

 珠結にしてきた自分のための行動は、気休めにしか過ぎなかった。珠結は自分のためにと悩み、自分が帆高に執着するせいでと責任を感じていた。真逆なのだと分かってもらうことは無かったが、それすら珠結を苦しめる要素だったなら自分はいっそ障害ではなかったのか。

それでも、側にいたかった。必要なんだと身を寄せてくれたから、いさせてもらっていた。彼女を、想っていたから。

さほど指折り数えないうちに、珠結は完全に世界から消えてしまう。いなくなる、逢えなくなる、置いていかれる。にも関わらず、今も。君に恋焦がれて、息ができない。

 腰を浮かせ、顔を近づけていた。帆高はそっと、触れるだけのキスを落とす。

口付けたそこには、何も付いていない。鏡で確認済みだったが、血は完全に止まっていたようだ。これ以上、珠結を汚すにはいかない。
< 242 / 284 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop