あたしが眠りにつく前に
 生き生きとしていた彼女は、花が萎んだように急に憂いを帯びた顔になった。

「脳梗塞起こして倒れちゃってね、私が介護してたのよ。その時の姑と似てたわ、顔つきとか雰囲気とか匂いとか。今時の子ってスタイルの良い、お人形さんみたいな子が多いけど、あれは自然な細さじゃなかったわね。ああ、この子は病んでいて、それはとても重いものなんだって。こんなに若いのにって、思わず泣きそうになっちゃったわ。だからつい…」

『大丈夫? お願い、叶うと良いわね』

 急に話しかけられて戸惑ったものの、珠結は穏やかでいて儚げに笑ったという。

『それもそうなんですけど、今願ったのは別のことなんです。自分のことじゃなくて…』

「そこでチョコちゃんが急に走り出しちゃって、気づいたらもういなかったのよ。あの子、元気にしてるかしらねえ。ねえ、おたくこそお体はもう大丈夫なの? 最近冷えてきたから…」

 珠結について、彼女がこれ以上に語れることは無いようだ。話の矛先が逸れたのを機に、帆高はそっと場を離れた。帆高の願いと話の中の少女との関連に気づかれたような気がして、彼の目は見られなかった。何となく、怖いと思っていた。

 石段を下りて仰ぎ見る。かなりの傾度と高さと段数といい、昔を思えば単独での階段の上り下りに恐怖を感じなかったはずは無いのに。そうまでして、願ったことは何だったのだろうか。眠り病以外に、他に何があるというのか。

かつて自分が教えたように、何を誓ったのだろう。君は何を思っていた? 問いかける帆高の声に脳裏の珠結は答えてくれなくて、また心残りが増えてしまったと帆高は一人ごちる。

 風が吹きぬける。木々の葉が揺れる音に、帆高はかつての神木の切り株があった場所に若木が植えられていたのを思い出した。



 ***


 帰宅してからの朝食は、料理自慢の母特製なのに味がしなかった。

「お砂糖、少なかったわね」

 卵焼きに箸をつけた母が呟く。無味なのは、心持ちによるものだけではなかったらしい。食事中に発せられた言葉はそれだけで、家族3人は黙々と器を空にしていく。

 休日出勤する父を見送り、支度を整える。四苦八苦していたネクタイは現在進行中の就職活動のおかげをもって難なく締める。この色を締めるのは、今日が初めてだ。

しばしして、母も玄関に向かう。あんたは時間通りに来なさいよ。距離は近くは無いが、今日は車を使わない。目立つ格好で気にすることなく、靴音が遠ざかっていく。

 頭がぼうっとする。何も考えたくない、何もしたくない。どこにも行きたくない。チクタクと時計の針の音しかしない畳の部屋で、帆高は横向きに寝そべった。

色的に、畳の屑は目立つ。出掛けにガムテープではがせばいいか。それだと生地が傷むか? 考えつつ逆方向に寝返りを打つと庭が目に入る。庭より手前の、縁側も安楽椅子も。逃げるように仰向けになって、天井を仰ぐ。

 時よ、止まれ。そんな魔法が使えたら、もっと前に発動させている。時計の音は止まらない。有限の時を生きるのは幸福か、拷問か。それとも無限は、帆高にとってはどちらも紙一重。こうなってしまったからには。

 どれくらい経っただろうか。柱時計の鐘が鳴る。回数からして、そろそろ出ないと遅れてしまう。付着した畳の屑は少量で、はたけば落ちた。

 磨いておいた革靴を履いてドアを開き、見上げた先には重そうな褐色しか浮かんでいなかった。

空が、見えないな。光にすら、手を伸ばせない。
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