あたしが眠りにつく前に
 火葬場には、遺族や故人と特に親しかった人物だけが同行するのが世間常識である。用意されたバンに揺られて到着したのは、一握りだけだった。

同行を求められなかったら、という杞憂は不要だった。帆高には「来るでしょ?」と分かりきったように言った幸世は、近くにいた里紗や塚本には「良ければ」と前置いて尋ねた。塚本は「いいんですか!?」と恐縮さえしていた。

 斎場に入る前に空を見上げると、雲の隙間から光が差し込んでいた。雨雲ではなさそうで天気予報でも曇りだと言っていたので、降り出すことはないだろう。まだ、少ない。

火葬炉は想像したよりも近代的で、ツルツルした金属の壁の中の金属製の台車に棺は置かれた。なぜだか、奈落の底の様な暗闇を奥に控えた古典的な窯をイメージしていた。大きな口を開けて棺を飲み込む。ブルリと身震いがした。

 あの中で、珠結の体は燃やされるのだ。昔来たはずの斎場での記憶は抜け落ちている。幼すぎたからではない、無意識に消去してしまったのか。

 全て、灰になる。細くて長い、艶々とした茶色の猫っ毛。白くて肌理の細かい柔らかな肌。容易く折れてしまいそうな、か細い手足と薄ピンクの爪。両手ですっぽりと包み込んでしまえるぐらいの小さな顔。

記憶の中の「帆高」と呼ぶ声や、クルクルと万華鏡のように変化する表情も炎の彼方に消えていく。フッと軽く吹きかけただけで一面に舞い上がってしまう、掴もうにも掴めない無形に近い有形へ。

 代わりに残されるのは何十分の一にも小さくなった、変わり果てた、珠結だった残骸(モノ)。帆高の喉の奥から、酸っぱい不快感がこみ上げた。ガコン。重い扉が閉ざされる音と同時に、帆高は走り出していた。

咳き込みながら吐き出したのは、唾液と胃液だけだった。入院してた頃は、吐くとしたら胃の内容物全てだったのに。朝食は吐かずに済んだかと口を拭う間もなく、今度は息も吐けぬほどの激しい咳が帆高を襲った。

 立っていることもままならずに、清潔とはいえない床に膝をつく。用を足すための狭い空間で、ゲホゲホと耳を塞ぎたくなる悲痛な喘ぎがこだまする。血でも吐くんじゃないか、遠ざかりそうな意識下で帆高は思った。

唐突に咳から解放されたと思えば、ヒュッと空気が漏れた。これは、最悪のサイン。息が、できない。魚のように口をパクパクとさせるも、求める酸素は肺に流れてこない。

 胸を押さえていた手に力が入らずに、指が開かれていく。死ぬのか、でも。脂汗が額をを伝って床に落下した。

ピーと、脳内でするはずのない機械音が鳴り渡って全身の力が抜けた時、背後のドアが勢いよく開かれた。



「わざわざ遠い方のトイレに駆け込むなんて、どういう神経してんのよ。あんたは」

「他の人に聞こえてしまうと、思ってたんでしょうね。ここの記憶は無いのに、勝手に足が動いてました。どうやら、体は覚えてたみたいです」

 馬鹿じゃないの。幸世は吐き捨てると、冷えた水のペットボトルをベンチに腰掛ける帆高の額に押し付けた。ぐったりとベンチの背に背中を預け、帆高は水を口に含む。

さんざ口を漱いだ洗面所の飲み水と違い、飲み水なだけあってスムーズに胃へと流し込める。中身が半分減ったところで、キャップを締めた。

「あんた、まだ完治してないの?」

「いえ、先天的なものは5歳までには治りました。もうすっかり、健康体です。さっきのは…病気のせいじゃないんです」

「じゃあ、何なのよ? どう見たって、緊急搬送レベルだったわよ」

 男子トイレに飛び込んできた幸世は、珍しく動転した。救急車を、と携帯電話を取り出しかけた幸世を、帆高はどうにか制止した。気絶する前で、本当に良かった。
 
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