あたしが眠りにつく前に
「精神的なものだそうです。何か心に大きなショックを受けた時、過去の嫌な体験の感触がフラッシュバックのように蘇る。吐き気も咳も急に息ができなくなるのも、入院していた時に体験した症状です。回復と悪化を繰り返したり、他の病気を併発したり。風邪でさえも命取りで、何度も死にかけました。あの頃は、地獄でした」
その記憶も徐々に薄れてきている。しかし生涯、無かったことになりはしないだろう。引き起こされる精神的発作は、帆高を当時の闇に引きずりこんでしまう。絶望と苦痛の淵へと突き動かされる。
「ご家族は…知ってるんでしょうね? というより、気づかないはずがない」
「軽度のものに母が居合わせたことがあります。その時、精神科の先生から一緒に説明を聞きました。母には通院を促されましたが、拒みました。病院はこりごりだとごねたら、渋々と折れてくれました。というのも、ちょっと咳き込んで息苦しくなっただけでしたし。すぐに治まったこともあってでしょう」
「様子見ってこと。でも、さっきのは桁が違ってた。あれを見たら、引きずってでも連れて行くわ」
「数回あった中で、ここまで酷いのは二度目です。ですが、死にはしないと高を括っていました。前回が、そうでしたから。あえての自己申告も必要無いと思っています」
珠結に拒絶され、生まれて初めて足場がガラガラと崩れていく感覚を覚えた。一人取り残された屋上で呆然としていると、これまでにない規模の衝動が襲った。
目覚めた時にはコンクリートの地面に横倒しになって、雨に濡れていた。数分の空白のうちに、目に映る万物がモノクロと化していた。色を取り戻したのは、珠結が戻ってきてくれたのと同時だった。
ならばなぜ、珠結の脳死宣告を幸世から聞かされた時は軽いもので鎮まったのか。きっとあの時は、決定打に欠けていたからだろう。
否定しようの無い決定的なアクションを目の当たりにしては、逃げ道は無い。始めは珠結の言うことは嘘だと思っていた。しかし珠結の声も目も冷え冷えとして、拒絶の意思が刺さるほどに伝わってきた。珠結は真剣でいて、本気だった。
初めての苗字呼びと「関係ない」の言葉の刃は、帆高の心を深くえぐった。これが本心なのかと、受け止めざるを得ない状況に追い込まれていた。確定された辛苦の現実が、ベッドの上が居場所だった幼児期の自分の状況とリンクした。
あの時は、首の皮が一枚繋がっていた。温かい体と鼓動する心臓が、脳細胞の死滅という無慈悲な現実から目を逸らさせた。0に等しくとも、希望は残っている。まだ、まだ大丈夫なのだ。
彼女はすでに、ここにはいない。予感していて自身に言い聞かせても、奇跡を渇望してもいた。だから、持ちこたえたのだ。最終的には叶いはしなかったが。
葬儀の日程を告げる連絡が来ても、葬儀会場に立って珠結の遺影を眺めても。現実味が無くて、地に足が着かない心地だった。しかし火葬炉の扉が閉じる音は、耳へ直接働きかけて現実を叩きつけてきた。
これで珠結の心だけでなく、体までもが失われる。遮断された扉の向こうで無に還る。珠結と生を繋ぐ糸が断ち切れてしまったのだ。
「なんで、今なのか俺自身もよく分からなくて…混乱してます。こんな情けないところ、母にすら見られたくないです」
離れたガラス張りの壁の奥で、母が里紗達に茶菓子を勧めているのが見えた。彼女達のいる地点から、中庭風の休憩所にいる帆高と幸世は見えない。
なかなか戻らない帆高を母と里紗、塚本も探し回ってくれたという。見つけてくれたのが幸世であってくれたのは幸い。
あんな切迫した場に、家族も友人も駆けつけてほしくはなかった。幸世なら、ひとまずは自分の中だけに留めてくれるだろうと期待していた。
その記憶も徐々に薄れてきている。しかし生涯、無かったことになりはしないだろう。引き起こされる精神的発作は、帆高を当時の闇に引きずりこんでしまう。絶望と苦痛の淵へと突き動かされる。
「ご家族は…知ってるんでしょうね? というより、気づかないはずがない」
「軽度のものに母が居合わせたことがあります。その時、精神科の先生から一緒に説明を聞きました。母には通院を促されましたが、拒みました。病院はこりごりだとごねたら、渋々と折れてくれました。というのも、ちょっと咳き込んで息苦しくなっただけでしたし。すぐに治まったこともあってでしょう」
「様子見ってこと。でも、さっきのは桁が違ってた。あれを見たら、引きずってでも連れて行くわ」
「数回あった中で、ここまで酷いのは二度目です。ですが、死にはしないと高を括っていました。前回が、そうでしたから。あえての自己申告も必要無いと思っています」
珠結に拒絶され、生まれて初めて足場がガラガラと崩れていく感覚を覚えた。一人取り残された屋上で呆然としていると、これまでにない規模の衝動が襲った。
目覚めた時にはコンクリートの地面に横倒しになって、雨に濡れていた。数分の空白のうちに、目に映る万物がモノクロと化していた。色を取り戻したのは、珠結が戻ってきてくれたのと同時だった。
ならばなぜ、珠結の脳死宣告を幸世から聞かされた時は軽いもので鎮まったのか。きっとあの時は、決定打に欠けていたからだろう。
否定しようの無い決定的なアクションを目の当たりにしては、逃げ道は無い。始めは珠結の言うことは嘘だと思っていた。しかし珠結の声も目も冷え冷えとして、拒絶の意思が刺さるほどに伝わってきた。珠結は真剣でいて、本気だった。
初めての苗字呼びと「関係ない」の言葉の刃は、帆高の心を深くえぐった。これが本心なのかと、受け止めざるを得ない状況に追い込まれていた。確定された辛苦の現実が、ベッドの上が居場所だった幼児期の自分の状況とリンクした。
あの時は、首の皮が一枚繋がっていた。温かい体と鼓動する心臓が、脳細胞の死滅という無慈悲な現実から目を逸らさせた。0に等しくとも、希望は残っている。まだ、まだ大丈夫なのだ。
彼女はすでに、ここにはいない。予感していて自身に言い聞かせても、奇跡を渇望してもいた。だから、持ちこたえたのだ。最終的には叶いはしなかったが。
葬儀の日程を告げる連絡が来ても、葬儀会場に立って珠結の遺影を眺めても。現実味が無くて、地に足が着かない心地だった。しかし火葬炉の扉が閉じる音は、耳へ直接働きかけて現実を叩きつけてきた。
これで珠結の心だけでなく、体までもが失われる。遮断された扉の向こうで無に還る。珠結と生を繋ぐ糸が断ち切れてしまったのだ。
「なんで、今なのか俺自身もよく分からなくて…混乱してます。こんな情けないところ、母にすら見られたくないです」
離れたガラス張りの壁の奥で、母が里紗達に茶菓子を勧めているのが見えた。彼女達のいる地点から、中庭風の休憩所にいる帆高と幸世は見えない。
なかなか戻らない帆高を母と里紗、塚本も探し回ってくれたという。見つけてくれたのが幸世であってくれたのは幸い。
あんな切迫した場に、家族も友人も駆けつけてほしくはなかった。幸世なら、ひとまずは自分の中だけに留めてくれるだろうと期待していた。