あたしが眠りにつく前に
「病院も心理カウンセラーも、俺には必要ない。俺は答えを出してるし、向こうが否定するのは目に見える。俺が納得する答えを出すこともないことも」

「でも相手は、専門家だ。絶対に、正しい方法で助けてくれる」

「正しいとか間違ってるとか、何になる? 助けなんていらない。だって、俺は幸せなんだよ。御園」

 さらに呟かれた言葉は、御園の耳にはよく聞こえなかった。語尾からして、願望の言葉のようだった。

「一之瀬…」

「ごめん、心配かけといて。だけど、こうでないと俺は生きていけないんだ」

 どうでもいいことを中途半端に話してしまった。御園にはさっぱり意味が分からないだろう。心にくすぶる醜い執着とと不毛な感情など、彼にまで無様にさらしたくなどない。

「月は人を狂わせる。俺も、いつにもまして狂ってる。だから…今話してたことは全部、気狂いの戯言だ。朝になったら全部、忘れてくれ。聞く価値も御園が気にする価値もないんだからな」

 足がよろけて、意図せず桟に腰掛けた。ようやく酔いが回ってきたのか、遅すぎるだろうと笑えてしまう。気狂いではなく、酔っ払いのうわ言と捉えてもらってもいい。

「来るな」御園を制した声は、思いもせず冷ややかだった。呂律が回っていたか、自信が無い。

「俺のことは、ほっといてくれ」

 もっと言い方というものがあるだろうに、自分が不甲斐なくて情けなくなる。これは気狂いでも酔いのせいでもない。御園が身動きがとれずに戸惑う気配が伝わってくる。

なんで自分を気遣ってくれる人間に対して、相手を気遣う言葉が吐けないのか。だから、人に気遣われるのは嫌なのだ。

 月が雲間へと退いていく。光が弱まっていく。まだ、狂気の中に浸っていたいのに。

照明の明かりが強すぎて邪魔だ。消したくとも、足は動かない。頭をガラスに押し付けたたまま、上に傾けて月の行方を見守るだけで精一杯だ。

 手を伸ばしても、届かない。消えていくのを見つめるだけ。大切なものはいつだって、手をすり抜けて遥か彼方へと飛んでいってしまう。手に入れることはおろか、触れることすらできないのだ。

触れられても、くすんだ心が滲み出して汚してしまったかもしれない。どこにもやるものかと、縛り付けて壊してしまっただろうか。

 何よりも欲しかったものは、何よりも綺麗で儚かった。こんな浅ましい自分には、ふさわしくなどないのに。それでも、狂おしく求めていた。

 瞼が重く、目の奥が熱くなってきた。目を閉じても、零れるのは持余した狂気と愚鈍な劣情だけ。不可視の雫は冷たく、心を冷ましていく。いっそ凍りつかせて、何も感じなくなってしまえばいい。

 光が見えない。空に従って、帆高の視界も心も意識も漆黒の闇に沈んでいった。
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