あたしが眠りにつく前に
寮の部屋で何の気無しに窓を見上げると、ほの暗い夕空に歪みなく丸い月が輝いていた。その紅い光は、帆高にあの気狂いの夜を思い出させた。
胸が痛い。息ができない。ほんの少し窓を開けていたのがいけなかった。頬を掠めた冷気が、あの真冬の体感を呼び起こす。体が震えて止まらない。寒くてたまらないのは、体だけか、心もか。
苦しくて、痛くて、いっそ消えてしまいたくて。嫌だ、逃れたい。強烈な二日酔いの経験でトラウマ化し、遠ざけていた買い置きのチューハイに手が伸びていた。
衝動のままに最後の一滴まで飲み干しても、痛みも寒気もいっそう酷くなるばかりだった。眠気も訪れず、目は冴えていく。絶望が声となって、今にも口から飛び出さんばかりだった。
どうしたらいい? のた打つ帆高の頭によぎったのは、‘最終目標’として御園が分けてくれた缶ビールだった。
気づいたら、御園が帰って来ていて今日が昨日になっていた。その間、ただ雲間の月の発現と消失を目で追っていたことだけは覚えている。
あれは、罰だったのだ。酔えなかったのも、くだらない告白も、御園に無様な醜態をさらしたのも。していたはずの覚悟が中途半端だったあまりに、酒と眠りに逃げようとした己への然るべき報いだったのだ。
自分の前から永遠に失われた彼女を想い続ける。
そう、心に決めた。だからこそ、自分は殺すことなく生きていけるのだ。
その対価は痛みだ。顔も見られない、声も聞けない、触れることも叶わない。聞き入れられない欲は、心中で暴れだして激痛をもたらす。不定期に唐突に目を覚ましては、食らいつく。
受け入れて共存していくべきもので、逃げてはならぬものだったのに。昨夜のは、とりわけ酷くて耐え難かった。自分で望んでおきながらと、帆高は痛み出す胸に手を置いて侮蔑する。
暖房が少し暑く感じてきた。外の気温も上がってきたのだろう。陽光は玄関側の帆高のベッドの付近まで差し込んできていた。
いっそ切るか。テーブル上にあったリモコンを取ろうとすると、頭がズキリと疼いた。額に手を当てると、ほんのりと熱い。暖かくとも、ベッドで寝なかったのだから当然か。
体温計はあったはずだが、どこにしまったのだったか。昔と打って変わって縁遠いものだから、朧気な存在感しか定着していない。机の引き出しを上から空けていると、帆高は当初の目的を忘れて‘それ’を手にとった。
『ねむりひめ』
表紙に大きく記された題名の下で、紅いドレスを纏った少女は目を瞑って目覚めを待っている。
1年前に寮に届いた封筒に、この絵本が入ってたのは驚いた。差出人は母の名前で、住所は実家だった。電話をかけるまでもなく、帆高には本当の送り主が分かっていた。
永峰幸世、この絵本の持ち主の母親。彼女が失踪した事実は知っており、やはり自分の居場所を知らせるつもりはないのだと悟りもした。
珠結は絵本が大好きだった。帆高も病院での鬱屈とした時間を忘れるため、よく絵本を読んでいた。珠結の家に遊びに行くと必ず、まだ文字の読めない珠結に読み聞かせていたものだった。
この『ねむりひめ』は珠結が毎回「読んで」とせがんできた、お気に入りの一冊だ。
胸が痛い。息ができない。ほんの少し窓を開けていたのがいけなかった。頬を掠めた冷気が、あの真冬の体感を呼び起こす。体が震えて止まらない。寒くてたまらないのは、体だけか、心もか。
苦しくて、痛くて、いっそ消えてしまいたくて。嫌だ、逃れたい。強烈な二日酔いの経験でトラウマ化し、遠ざけていた買い置きのチューハイに手が伸びていた。
衝動のままに最後の一滴まで飲み干しても、痛みも寒気もいっそう酷くなるばかりだった。眠気も訪れず、目は冴えていく。絶望が声となって、今にも口から飛び出さんばかりだった。
どうしたらいい? のた打つ帆高の頭によぎったのは、‘最終目標’として御園が分けてくれた缶ビールだった。
気づいたら、御園が帰って来ていて今日が昨日になっていた。その間、ただ雲間の月の発現と消失を目で追っていたことだけは覚えている。
あれは、罰だったのだ。酔えなかったのも、くだらない告白も、御園に無様な醜態をさらしたのも。していたはずの覚悟が中途半端だったあまりに、酒と眠りに逃げようとした己への然るべき報いだったのだ。
自分の前から永遠に失われた彼女を想い続ける。
そう、心に決めた。だからこそ、自分は殺すことなく生きていけるのだ。
その対価は痛みだ。顔も見られない、声も聞けない、触れることも叶わない。聞き入れられない欲は、心中で暴れだして激痛をもたらす。不定期に唐突に目を覚ましては、食らいつく。
受け入れて共存していくべきもので、逃げてはならぬものだったのに。昨夜のは、とりわけ酷くて耐え難かった。自分で望んでおきながらと、帆高は痛み出す胸に手を置いて侮蔑する。
暖房が少し暑く感じてきた。外の気温も上がってきたのだろう。陽光は玄関側の帆高のベッドの付近まで差し込んできていた。
いっそ切るか。テーブル上にあったリモコンを取ろうとすると、頭がズキリと疼いた。額に手を当てると、ほんのりと熱い。暖かくとも、ベッドで寝なかったのだから当然か。
体温計はあったはずだが、どこにしまったのだったか。昔と打って変わって縁遠いものだから、朧気な存在感しか定着していない。机の引き出しを上から空けていると、帆高は当初の目的を忘れて‘それ’を手にとった。
『ねむりひめ』
表紙に大きく記された題名の下で、紅いドレスを纏った少女は目を瞑って目覚めを待っている。
1年前に寮に届いた封筒に、この絵本が入ってたのは驚いた。差出人は母の名前で、住所は実家だった。電話をかけるまでもなく、帆高には本当の送り主が分かっていた。
永峰幸世、この絵本の持ち主の母親。彼女が失踪した事実は知っており、やはり自分の居場所を知らせるつもりはないのだと悟りもした。
珠結は絵本が大好きだった。帆高も病院での鬱屈とした時間を忘れるため、よく絵本を読んでいた。珠結の家に遊びに行くと必ず、まだ文字の読めない珠結に読み聞かせていたものだった。
この『ねむりひめ』は珠結が毎回「読んで」とせがんできた、お気に入りの一冊だ。