あたしが眠りにつく前に
 君は目覚めさせてくれたのに。姫が目覚めさせるなんて本末転倒だが、姫自身が置かれた状況自体が不可思議なのだから何でもアリは通用するだろう。魔法というイレギュラーが許容された世界なのだから。

‘おんなじ’なら、どうして。ハッピーエンドの結末も‘おんなじ’にしてくれなかったのか。君は眠りから覚めなかったのか。

現実と寓話の違いだよ。冷たく囁かれた声に、帆高は黙れと言い放つ。

「…っと、体温計」

 今の幻聴は、かなり現実味があった。口に出して言い返していたことにも、問題を感じる。クラリと頭が傾いて、ぼうっとする。熱があるのは確実だろう。立っているのが億劫になってきてもいる。

 体温計の捜索のために絵本を引き出しに戻そうとすると、手が滑って紙の質感が失せた。バサバサと音を立て、絵本は半開きの状態で床に落下した。

 帆高は慌ててしゃがみこんで、絵本の状態を確認する。破れていないか、折れ曲がっていないか、前に後ろにとページの詳細まで目を光らせる。幸いにも、どこも破損は見られなかった。

良かった。床に尻を着き、安堵の声が漏れる。

 これは幼い珠結の宝物だった。15年経った今でも、傷や破れ跡など目だった損傷はない。色はやや褪せているが、綺麗なものだ。読まなくなって年を経ても、ずっと大事に保管していたのだろう。

帆高にとっても思い入れがある品だ。ふと絵本が目に入った時は、まだ可愛げのあった幼馴染を思い出してくれただろうか。

 幸世は形見分けのつもりで、大切な娘の思い出の1つを贈ってくれたのだろう。彼女なら、珠結と帆高がこの絵本をよく読んでいたのを知っている。

珠結は母親には手紙、1番の友達には誕生日プレゼントを遺していた。しかし幼馴染であり親友であり、強い絆があったはずの帆高には何もない。帆高の想いを知っていただけに憐れに思えて、せめてもの遺品を寄越してくれたのかもしれない。

 何度絵本を開いても、手紙の封筒も隠されたメッセージも発見することはできなかった。改まって言っておくことなどない。一抹の寂しさを感じたのは、我ながら女々しかった。

下手に遺言めいた手紙を書いての涙のお別れなど、望まなかったかもしれない。だとしたら、アッサリとしていて珠結らしい気もする。

こっちは色々と聞いてみたいことがあったのだが、これで本当に迷宮入りなのだと悶々とする思いがある。だが珠結が決めたことだ、受け入れるしかない。薄情だな、皮肉ってみもした。

 最終確認として、見直した表紙も無事だった。本のカバーは破れやすいから、そこまで思った帆高はふと違和感を覚えた。

子供にとって本のカバー邪魔なものに過ぎない。わざわざ取り外してしまうし、破いてもしまう。そのため親は買った直後にカバーを外し、別に保管することが多い。この絵本だって例外ではなく、自分達が読んでいた時には外されていた。

 破損する心配が無くなった年になってから付けたのだろうが。表紙をめくってカバーの帯部分を見れば、中央に短く張られていた。わざわざ留める必要など無いはずだ。

図書館で用いられる専用のテープと違い、市販のセロテープは時が経つと黄ばんで粘着力が低下する。小学生の時に学校の図書室で見た古い本には、テープの黄ばみが紙に染み付いていた。「汚いね」と話したこともある。

 大切な絵本を汚しかねない行為を、あえてするものだろうか。テープは透明で、張られてからさほど年月は経っていないようだ。

 こんな時に、探偵気取りか。声が嘲笑う。帆高は無視を決め込んで、取り付かれたかのように表紙をカバーの上から摩る。

まさかな。駄目元で裏表紙も同様に摩ってみると、指先が中心部分に僅かな凸を捉えた。その異物感に鳥肌が立った。

期待なのか困惑なのか、数字の分からない熱のせいによるものなのか。ただ胸はドクドクと高鳴って、呼吸を忘れそうだった。
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