あたしが眠りにつく前に
『約束した あの場所で、待っています。

そこで君は、あたしに告げなくてはなりません。

そうして君は、歩きだせる。

あたしの 誓いに報いるために。

あたしの 願いを叶えるために。』

 便箋の4分の1しか占めない、小さな文字の羅列。輪をかけて淡白で、漠然として。なんて意味深長な。

核心については謎のまま。今度こそ彼女は、何も語ってくれることはないだろう。

 期待しただけあって、落胆もある。しかし、笑いがこみ上げてくる。彼女はどこまでいっても彼女なのだ。掴もうとしても、しれっとした顔でヒラリと身を翻す。彼女は自由気ままに飛び回る鳥なのだ。

 『帆高なら、分かってくれるでしょう?』そう試されている。ああ、確かに。薄っすらとだが、分かりかけている。…でも、ごめん。

便箋を閉じ、目を閉ざす。彼女が自分に何を望んでいるのかなんて、どうにも分かりようがない。

帆高は封筒に2枚を戻すと、再び内の表紙に貼り付けてカバーをかける。帯のテープは剥がれぬよう、強く撫で付ける。

 ごめんな。帆高は絵本を胸に抱きしめてうずくまる。ポタリとまた一滴。しかし帆高には真っ黒な泥水のように見えた。

 君が思うほど、自分は優しい人間なんかじゃないんだ。愚かで弱くて汚い、業の深い卑怯者なのだ。

君は約束を忘れていない。約束が果たされるか否かは、逆転して自分の手に委ねられた。そこで、酷くずるいことを思いついてしまった。君が知ったら必ず見損なうだろうし、責め立てるだろう。

 君の意思に反して裏切るなど、昔は考えられなかった。しかし時は流れた。それに従って、人の心は変幻自在に形を変える。

‘君が待っていてくれている’言葉にすぎなくとも存在を肯定するのなら、縋り付くにはうってつけで。楽な方へと逃れて、利用してしまう。自分のことしか、考えられない。

砕けたグラスは破片をかき集めても、元には戻らない。引き返せないまでに、この心は狂ってしまった。退路は自身で破壊してしまっている。

 家族でも恋人でもない親友(たにん)を、刷り込みのように慕い続けるなど滑稽だろう。部外者は笑いたければ、嗤えばいい。だが、この狂気(しあわせ)を邪魔することはできないのだと地団太でも踏めばいい。

 幸せに違いないのに、彼女を想って惑う夜も喪失の事実への身悶える絶望も一生付きまとう。しかし欠片の行方が知れない中で、それこそが彼女そのものだった。苦痛を伴えど無くてはならない、彼女を感じる幸せの条件なのだ。

 大切な約束は壊れずに生き続けている。彼女は嘘をつかない、果たされるまで待っている。約束を介して二人は繋がっていられる。維持するためには? …終わらせなければいい。

 君の隣を歩いて未来を生きていきたかった。そんな淡い夢は脆く崩れ去り、君は旅立った。もう、何も恐れるものはなくなってしまった。つまりは何からも支配されないということだ。

間違っていても、異常であっても、幸せなのだと断言できる。

 ああ、これで完全に。大丈夫なのだ。最後の一滴が床に吸い込まれる。瞳を爛々と輝かせ、狂者は口の端を吊り上げた。
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