あたしが眠りにつく前に
 玄関からドアが開く音がして、ヒタヒタと音を潜めた気配が近づいてくる。いつもはドタバタとやかましいぐらいなのに。午後からは槍が降ってくるかもしれない。帆高は窓を見やって、半分本気で思った。

こんなところでボサっとしている訳にはいかないか。立ち上がりかけると、足が半歩後退してよろめいた。熱があるかもしれないんだったか、この分だと8℃いっているだろう。

「悪い、体温計借りてきてくれるか。引いたみたいだ」

 閉まったドアの向こうから、「おう!」と返ってくる。そして、ドタバタと駆ける音と豪快にドアが閉まる音を残していってくれた。やはり御園だ、期待を裏切らない。

帰宅早々、こき使ってしまった。毛布のことや差し入れのことも合わせて、礼を言わなくてはなるまい。また、3本ほど買ってきてやるか。その時は自分の分も。もちろん黄色い安価なジュースのもので、純粋に楽しんで飲むために。逃げには、使わない。

 椅子の座面に手を預けて何とか立ち上がり、開いたままだった引き出しに絵本を戻す。表紙の眠り姫は眠り続け、その寝顔を帆高はじっと見下ろす。数秒して、一笑。閉めて闇の中へと戻す。

 薬袋の中身は御園や周囲の部屋の連中に貸しても溜まるばかりで、風邪薬なら3箱はある。マスクも用意しておこう。馬鹿は風邪を引かないというのは大嘘だと、御園で重々思い知っている。彼にも予防として渡しておくべきか。

「あった、あった! 久保が持ってたぞ!」

「いや、最初から医務室に行った方が早いだろ…」

「でもこれ、耳に突っ込んで1秒タイプだぜ? すごいよな!」

 息を切らせ、御園は笑う。髪のあちこちが跳ね、むき出しの額に汗が滲んでいる。帆高もつられて笑みを浮かべる。

「あれ? 目、ちょっと潤んでないか? 俺の友のために走る雄姿を想像して感動しちゃった?」

「阿呆か。熱のせいだ。…ありがとな」

 昨夜のことは夢だった。御園は何も言わずに帆高の瞳を見る。良い友を持ったと思う。阿呆だが。

「一之瀬、熱あるんだって!? 馬鹿じゃないから、風邪引くのは当然だよな!」

「これ、実家から送って来た蜜柑だけど食え! どうせ食いきれないと思ってたし!」

「おい! 人の部屋、勝手に入ってくんなよ!! 一之瀬、いいから熱計れっ」

 病人がいる部屋だとは思えない室内のボリュームと人口密度。暖房を切ろうにも、リモコンがあるテーブル付近はガヤガヤと取り込んでいて近づけない。飛んできた体温計を受け止め、帆高はため息をつく。

 カタリ、と窓が鳴った。外では木々が風に煽られて揺れていた。しかし震えるほどの寒さを連想させる強いものではなく、穏やかに撫でるそよ風程度だ。

冬だと思えないぐらいに、日差しが強くなっていた。外に出れば小春日和だと感嘆できようが、病人と白状したからには出させてもらえないだろう。眩しさに、帆高は目を細める。

 君は唯一であり絶対の人で、君より想う人はいない。自分の中から君がいなくなる時など未来永劫、訪れやしない。自分の幸せに君は必要不可欠な存在、だけど。

 振り返ると、来訪者達は御園の机やベッドに好き勝手にちょっかいをかけていた。帆高の私物に手を出す勇者は見られない。賢明な判断だ。

互いの家族、君にとっての杉原、自分にとっての塚本のように。彼らも大切な存在なのだと言い張れる。馬鹿で下品で騒々しい連中だけど、いざという時には頼りになる友人達だ。
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