あたしが眠りにつく前に
 帆高が戻って来るまでは、数分も経たなかった。シャープペンシルを問答無用で没収し、濡らした黒いハンカチを珠結の左手に被せて軽く押さえる。

「…ありがと」

 水の冷たさと滲みて感じる痛みが、少しだけ頭をはっきりさせる。帆高の瞳は、すでにいつもの強い眼差し程度に戻っていた。ただ、やや心配の色が混ざっていることには胸が痛む。

「保健室はいいのか」

「大袈裟」

「言うと思った」

 帆高はハンカチから手を離し、前の座席に座って珠結の顔を覗き込む。
こんな寝ぼけ顔、いくら帆高でも間近で見られたくないんだけど。でもわざわざ言うことでもないし、言う気力も無い。

 傷のせいでより熱を発しているせいか、ハンカチの水が温くなるのが早い気がする。ひっくり返してみれば、目立たないものの血の痕が点々とついていた。

「…どうしても、続けたいか?」

 最終的な決定権は、責任者の帆高にあった。通常、補習の時間は教員が監督していた。しかし今日に限っていずれの教員も病欠、出張、私用のために受け持つことができなかった。

そこで駆り出されたのが帆高だった。学年1位で素行も良いため教員達の信頼は厚く、珠結の世話役として名が通っていたこともあり、彼なら任せても大丈夫だろうと一任されたのだった。

 補習の間は一人図書室で待っていた帆高は、「待つ場所が変わるだけだから」とすんなり了承した。そして教師の期待通り、監督の役目をしっかりと果たしてきている。

 珠結は帆高の目を見て、コクリと頷いた。

「…分かった。今から20分、仮眠取れ。時間になったら起こしてやる。その代わり、起きた後は2倍速だから。先生がいなくても、下校時刻には間に合わせないとな」

「いいの…? でも、あたし、一度寝たら、なかなか起きられないこと…知ってるでしょ?」

「その時はその時に考える。できるだけ平和的な起こし方を、な」

 その意味ありげな笑みに、一瞬鳥肌が立った。どうか頭からバケツの水をぶっかけるような暴挙に出ませんように。珠結は心の底から祈った。

「とにかく、さっさと寝ろ。時間、無くなるぞ」

「…分かった。おやす、み…」

 睡魔への長きの抵抗の反動か、気を緩めた1、2秒で珠結の意識は完全にブラックアウトした。
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