あたしが眠りにつく前に
 黒板の前でチョークを手に取り、いざ計算式を書こうとして…一瞬手を止めた。

 ……あぁ、もう。またか。

 心臓を射抜くような強い視線が背後から突き刺さる。反射的に背筋が伸びる。

 そもそも彼女達はまだ高校1年生である。ここの学校は進学校でもなく、受験勉強とはまだ縁遠い時期だ。

よって、とりわけ勉強にハングリーになる必要はない。何かと授業を中断させる彼女はクラスでは重宝されていた。

 そうであっても多くの好意的な視線の中に感じる、唯一の鋭い視線。それが誰によるものかは分かっている。これが初めてではないのだから。

「よし、正解。今度からは気を付け…って、言っても無駄だったな…」

 遠い目をした教師の皮肉混じりの言葉に苦笑し、座席側に体を向けると視線の主と目が合った。相手はなおも目を逸らさずにじっと見つめてくる。

 なによ? 他の誰にも気付かれないように瞬きで訴えてみせると、眼光がさらに強まった。素知らぬふりでその人物の机の真横を通る時、ハァと小さく息を吐いたのが聞こえた。

それは、こっちがしたいくらいだ。彼女も席に着くと、軽く息を吐いた。

 その後は再び寝つくことはなく、無事に授業終了のチャイムとHRでの担任からの連絡事項を聞き遂げることができた。あの視線で意識が完全に明確となったのだから、不本意ながら感謝すべきかもしれない。

 清掃場所の中庭から戻って来ると、教室にはすでに誰もいなかった。閉められたカーテンの隙間から差し込むオレンジの光が消灯済みの室内を唯一照らしている。

 あの時にチョキを出しておけば良かった! そしたら自分が真っ先に一位抜けし、ズルズル負け続けてゴミ捨て場に行かずに済んだのに。

そのうえ帰り支度をまだ済ませていない自分のズボラさが憎らしい。黒板の上の時計は5時3分前。早く行かないと“あいつ”に何を言われるやら。

 日中ほとんど寝ていたためにたいして開かなかった教科書や、書きもせず握るだけだった筆記用具を鞄に詰めて教室を後にする。

 向かう先は下駄箱でははなく、ひたすらに階段を駆け上がる。途中、複数の教室から吹奏楽部のパート別練習らしき楽器の音が聞こえ始めた。いつもなら着いた先で耳にする音色だ。

4階に着いたところで、彼女は塗装が所々剥げ落ちてかなり古びた扉の前に立った。

錆びかけのノブを回して扉を開くと、ギギギと不快な音が生じた。そこは部室でも空き教室でもなく―――
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