あたしが眠りにつく前に
 珠結は言葉を発せなかった。驚きと戸惑いの色が、彼女の目に含まれているのが珠結には見て取れた。しかしそれらだけでない。

 彼女自身とは違う、異質な物を見るような目をしていた。珠結の血の気が一斉に下がる。どうして? 意味が分からない。怖い。

震える唇で彼女の名を呼ぶと、彼女は我に返ったような顔になった。

「あ…。ごめん、ジロジロ見て。何でもないよ。さて、男子達の『口だけじゃなくて、手も動かせ』光線が痛くなってきたから、そろそろ掃除再開しよっか。珠結、まだ気分良くないなら休んでていいからね」

 彼女はいつものサバサバした口調で話を切り替える。目はいつの間にか、友を気に掛ける穏やかさを映し出していた。

「あと少しで終わることだし、先に帰っても問題無いから。万一、先生が来ても上手く言っとくよ」

 女子は皆、その言葉にうんうんと頷く。珠結は言葉の優しさを喜ぶよりも、状況の一転に呆気に取られていた。もしかして、さっきのは自意識過剰による思い違い?

だいたい突然倒れて、立ち上がるのに手まで借りたのだから、彼女がより驚いて戸惑うのは当然だったのだ。あの目の意味は勘違いで、かなりの心配によるものだったのだろう。

 勝手に嫌な解釈をしてパニックになりかけた自分がとんでもなく間抜けに思え、その実、安堵感で笑いがこみ上げそうになる。後ろでは同じ班の男子達のイラついた表情が控えている。いつ激が飛んできてもおかしくはない。それを見て珠結は慌てて表情を引き締めた。

「ホントにもう大丈夫だって。…掃除、かなり中断させちゃったね。それじゃ罪滅ぼしに、あたしがゴミ捨てに行ってくるね」

 珠結は誰かが二の句を告げる間もなく、口を縛ったゴミ袋2つを提げて跳ねるように教室を出た。背後から聞こえた、「何だ、元気じゃねーかよ」という男子の悪態には少し傷つき、大部分はホッとした。

周囲のクラスメートは一瞬ポカンとするも、珠結の退場を皮切りに元の担当任務に戻って行った。

 その後、その場にいた誰もが知る由はなかった。

焼却炉に向かう珠結の足どりが外に出た直後におぼつかなくなったのも、手の甲を腫れ上がる程に思い切り抓っていたことも。

掃除場所に戻って来てもなお、珠結の視界は曇り柄ガラス越しのようにぼんやりとしていたことも。
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