あたしが眠りにつく前に
「……一之瀬君、かわいそう」

 帆高との距離が数メートル程離れた所で、彼女が低く呟いた。

「…何が言いたいの?」

 振り返らず、帆高は足を止めた。その声に抑揚は無く、極めて平淡だった。

「だって、一之瀬君は永峰さんのせいで縛られているんだもの」

 ピシリ。空気が一気に張り詰め、帆高の瞳の奥で冷たい炎が燻りだす。

これは、非常にまずい。珠結はハッと息を呑んだ。いつか自分が他校生の男子生徒とぶつかって転び、いちゃもんをつけられた時。あの時と全く同じ感覚だ。

 後ろ姿しか見えない彼女に、帆高の変貌した瞳や雰囲気が分かるはずも無い。

 それ以上続けたらダメだ。やめてやめてやめて。この哀願が彼女のためか、果たして自分のためなのか、珠結には判断できなかった。

状況を止めることも変えることも、創り出した彼女本人にしかできない。珠結は口を両手で押さえてしゃがみ込む。それでも耳は押さえてはいけない。そんな気がしていた。

「皆、言ってるの。一之瀬君は永峰さんの従順な下僕だとか便利屋だとか。一緒にいるのは何か弱みを握られてるからとまで言ってる人もいるのよ。でも、そうじゃない。永峰さんから離れられないのは、ほっとけないから。一之瀬君は浮いてるクラスメートにも明るく気遣ってくれるくらい、とっても優しい人だって私知ってるもの」

 帆高は無言のまま微動だにしない。彼女はその無反応が自分の意見の続きを促しているのだと捉えて、言葉を続ける。

「永峰さんはいい加減、自立するべきよ。なんでも授業中は居眠りばかりで、遅刻は常習犯レベルなんですって? 最近は欠席もするようになって、それでいて何でも一之瀬君に頼ってばかりで。このまま甘やかし続けてたら、永峰さんはますますダメになっちゃうわ…! ねぇ、一之瀬君だって本当は分かってるんでしょ? 永峰さんは幼なじみだから、ほっとけないのは分かる。でも心を鬼にして、あえて突き放すのも優しさだと思う。…言い辛いなら、私からそれとなく言い出してもいいんだから。部外者の意見の方が却って心に響く事だってあるだろうし…」

 彼女は言葉を切り、帆高の反応を待つ。しばしの静寂を経て、ようやく帆高は彼女に振り返った。

「言いたいことはそれだけか? 自己陶酔もいい加減にしろよ」
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