あたしが眠りにつく前に
 気づけば自宅のアパートの部屋の前に到着しており、雨はだいぶ前にやんでいたらしく制服は湿っている程度だった。よくもここまで走り続けられたと我に返れば、とてつもない疲労感がのしかかってきた。

 胸で手を押さえると、心臓は早押しボタンを連打されているかのようなハイリズムで鼓動を打つ。うまく酸素を吸えないほど呼吸を荒げ、珠結は膝をついて蹲る。

歩いて呼吸を整える余裕など無い。無意識による底力は強大だが、その反動は倍返しで返って来た。なんとか落ち着いて立ち上がると、珠結はドアノブに鍵を差し込んでひねった。

 玄関に入って目の前のダイニングは、薄暗い闇に沈んでいた。きちんと閉められた蛇口から水音がするはずも無く、食器や家具はひっそりと身を潜めている。

ドアを閉めたら、子供のはしゃぎ声や車の音は遮断された沈黙の空間。その中で鍵についた根付の鈴の音のみが、歩くたびに心細く響いた。

 「ただいま」を最後に言ったのはいつだったか。帰っても家に誰もいないのに慣れ切って、すっかり忘れてしまった。

 今日ばかりは母がいないことに感謝する。今の自分の様子を見て母が何も気づかないとは思えない。そっとしておいてくれるだろうが、変に気遣われたくはない。

 和室の小さな部屋は珠結に与えられた部屋だ。格安物件の部屋はお世辞にも綺麗といえず、壁はところどころで塗料がはがれたり、古いしみがこびりついていたりする。畳は取り替え時期をとっくに過ぎ、日に焼けて変色して壁同様に汚れや水の跡も見られる。

「…何であんなこと」

 制服のまま、珠結は積まれた敷布団に抱きつくようにもたれ掛かった。右手にはまだ帆高の手を弾いた感触が残り、握り締めても消えない。

帆高に頭を触られるのは珍しくない。ある時はテストでミラクルを起こした時の祝福だったり、またある時は友人とケンカした時の慰めだったりと多様。力の加減もその場その場で使い分けられていた。

 嫌だと思ったことは一度も無い。子供みたいと軽口を叩きながらも心では安心し、次も頑張ろうと思っている自分がいた。

嬉しかったはずの手。にも拘らず、自分がしたことは拒絶。直後の帆高の瞳には驚きと共に困惑の色も映っていた。
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