あたしが眠りにつく前に
『おはよう』

 たとえ帆高の機嫌が最高に悪かろうと、大喧嘩をしていようと、二人の間に恋人疑惑が立ち上がっていようと。帆高が浮いた存在となってしまっている、ここ数週間の間でも。

帆高と友達になってからは、顔を見れば必ず発していたあの4文字が今朝は無かった。

 これは企みの始まりを告げる合図。帆高は挨拶の有無に気づいていただろうか。その真意を気づかれること無く、達成できたら。珠結は目を閉じ、そう思った。

 生徒指導の教員から馬の耳に念仏同然の叱責と居残り宣告を受け、重い足取りで教室に戻ると、黙々とシャープペンシルの走る音のみが飛び交う。『残った分は宿題』という脅しは、自習時はいつもふざけている生徒達までも服従させていた。

 珠結の中で‘数学’とは‘永遠に相容れられない物’であり、‘眠りに誘う者’であった。公式・計算パターンを当てはめて、たった一つの答えを導き出す。どこが面白いんだ、こんなもの。

数学担当の担任には申し訳ないが、半分もできないうちに眠りの世界に旅立ってしまうだろう。戻る途中にでも、口にしておけば良かった。フリスクの効き目も切れかけ、自習中とはいえ口にはできない。鞄の中に潜ませている強強打破の出番も次回に持ち越しだ。

戻ったばかりでまた教室を出るのは何だし、面倒くさい。しばらくは‘アレ’で粘ってみるか。珠結はカチカチとシャープペンシルの芯を少し長めに出していると、

「た、頼む。問4の①の公式、教えてくれっ」

小声ながらも静かな教室では丸聞こえな、困り果てた声が聞こえた。

「教科書見ろ。先生は何を見てもいいって言ってたって言っただろ」

「見てもお手上げなんだって。なぁ、ちょっとだけでいいからさ! これ解けないと次の②と③も分かんねーし」

 目線はプリントにロックオンのまま手を動かす帆高と、体を傾けて懇願する帆高の隣の男子生徒。声に誘発されて忍び笑いや私語の声が上がり始め、周囲の集中した空気が乱れだす。

「一之瀬~! 後生っ」

「…教科書98ページ。前やった問題集のページにも類似問題が出てる。それと…」
< 87 / 284 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop