あたしが眠りにつく前に
 人間は一日に7~8時間寝るのが理想だという。睡眠時間の長短が寿命のそれに関わっているとの研究報告がされたのは、それほど前のことではない。

長すぎず短すぎず。それこそが長生きの秘訣。結論的に言えばこんなものだろう。

 珠結は幼い頃から早寝早起きの規則正しい生活を送っていた。夜間番組に興味が無ければ、まだ寝たくないとごねることもなく、自らさっさと床を敷くのが当たり前だった。

布団に入れば、ものの数秒で安らかな寝息を立てた。なんでも夜泣きをしたことは一度も無く、日々の仕事で疲れを抱えた母の安眠は無事に守られていたという。

 起きているよりも早く眠りたい。訪れる眠気は、子供特有の好奇心や駄々を覆い尽くすまでに強烈だった。

 とにかく珠結の寝付きの良さは、母や保育士にとってはありがたいものだった。手間のかからない子だと手放しに褒められ、珠結はそれが得意だった。

 しかし小学3年生になった時、異変は起き始める。夜間においてだんだんと眠気を早くに感じるようになった。

そこで眠くなったらすぐ布団に潜るようにしたところ、中学校に入学する頃には8時前には寝ついているのが普通となっていた。

 それ以降に起きているのはもはや不可能で、あっという間に眠りの中に引きずり込まれてしまう。それでいて起床時刻は変わらないため、睡眠時間だけが異様に増え続けた。

そのうえ珠結の中に住み着く睡魔は夜間だけでは満足せずに、活動範囲も拡大していった。

 前夜に10時間も睡眠をとったというのに、真昼間でもうつらうつらと眠気を覚える。授業中であってもついつい眠りこけ、教師陣には毎日のようにきつく叱られた。

母は何も言ってこなかったが、学校からの電話や呼出しは数回どころではなかったはずだ。

 同級生、特に男子達には“三年寝太郎”というあだ名を付けられて、大いに笑われたものだった。『せめて‘姫’の方にしてよ』と笑って返してはいたが、登校拒否を考えるほどに心の中でかなり落ち込んだ時期もあった。

この頃から、自分の睡眠事情が異常であることに気づき、自覚するようになった。

 現在は精神的に成長している同級生達から“寝太郎”と呼ばれるなどして、しつこくからかわれることはない。高校の教師陣は至っておおらかで、繰り返される叱責に憂鬱となる日々を送ってもいない。

だがそれは周囲の環境が変わったからだけにすぎず、珠結の眠り癖はなおも健在である。

 症状は緩やかに酷くなる一方で、珠結は今や半日以上もの時間を眠って過ごしている。
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