あたしが眠りにつく前に
「あ……」

 目が合うと帆高は肩から手を離し、机の前に移動してきた。そこにいた里紗と保健委員の彼女は呆気にとられながらも、そそくさと場所を空けた。

 状況がよく飲み込めないながら珠結は薄目で正面に顔を向けるも、ふらつく頭が意識と共にガクリと沈みかける。しかし帆高はそれを許さず、頬に手を添えて支えると口の中に何かを突っ込んできた。

 唇への柔らかい感触。鈍った脳が指であると数秒遅れて分かれば、今更のようにドキリと心臓が鳴った。それが羞恥か驚きかはたまた別の感情によるものか判断する前に、余韻は別の異物感にかき消された。

口の中に鎮座するのは丸くて固い、ツルツルしたもの。それも2つ。何だろうと舌で探れば、歯に当たってカラカラと鳴る。

「…にがっ。何、これ」

「無糖の珈琲飴。もっと食うか」

 うえっと吐き出しそうになるが、理性をもって踏み止まる。苦いものを毛嫌いする珠結は、帆高の必要以上の悪意が感じられてならない。

「…それで、何か用? あたしにお昼食べさせるためだけに、起こしたんじゃないんでしょ」

「話がある。ちょっと来い」

「お昼、まだ食べてないのに? 後にしてくれないかな」

「どうせしばらく喉を通らないくせに。それにそっちが言う‘後’は当てにならないし。俺もまだだ、早くしろ」

「嫌って言ったら?」

「話す場所がここになるだけだ」

 帆高には目的を断念するつもりは無いらしい。威圧的な態度に対し、珠結の苛立ちも積もって喧嘩腰になる。まるで果たし合いの申込みのような、緊迫した空気がのしかかる。

誰も二人の会話に口を挟めない。どうか他所でやってくれ、との無言の訴えが珠結にはひしひしと伝わってきた。

 帆高のこの様子なら、良からぬ話ではない。このまま居座れば、宣言したとおり帆高は周囲を気にせず話し始めるだろう。一番困るのは誰か、珠結だ。

逃げ場を作らせない帆高はずるい。しかし前触れもなく彼を避け続けてきた自分はもっとずるくて、卑怯。

「…分かった、行く」

 珠結が目を強くつむると、眠気と苦味への生理的な反応による涙が一筋ずつこぼれた。全身に怠さが残るも、深呼吸をして何とか立ち上がる。

 周囲の静寂は依然とし、彼らの目には帆高は冷酷に映っているだろう。せっかく収まりかけてきた冷ややかな風評がぶり返しかねないのを予想できないほど、帆高は馬鹿ではない。彼は安くはない代償を払うリスクを犯してまで、強硬手段をとった。

 ぐらりと視界が揺らぐ。そうすぐに倦怠感は抜けてくれない。珠結は途中何度か廊下の窓の桟に手を置き、立ち止まって俯いた。太腿をつねって顔を上げる度、帆高の背中は近からず遠からずの距離を保っている。

調整した歩調が適当であり、珠結が逃げずに付いて来ていることも、振り返らずとも分かっている。その後姿は牽制をしているようだった。
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