あたしが眠りにつく前に
 そっけなく言い放つと、珠結はそっぽを向いた。帆高の眼は完全に見えなくなる。しかし帆高が息を呑む気配は感じた。

‘君の名を、もう呼ばない’

 心に決めていた。そして名字を口にしたのはこれが初めてだ。帆高も確信しただろう。これは、間違いなく、決別の宣言。

 心当たりも無いまま避けられ、納得のいく説明もされずにはぐらかされ、あげくのはてに拒絶。これほどまでに屈辱的な仕打ちを受けて、腹が立たないわけが無い。

このタイミングで名字呼びはまずかったかもしれない。しかし珠結ははた、と思う。どうして最初からこうしなかったのかと。

帆高は優しい。故にこちらが急に距離をとったところで心配する、ほっとけない、離れられるはずがないのに。

 いっそ嫌われてしまえば、顔を見るのも嫌になるくらい憎まれてしまえば。彼の中から完全に消えることができる。ああ、やはり自分はとんでもない阿呆だった。

 怒鳴られる、または凍りつくような軽蔑の言葉を浴びると覚悟した。でも実際はどちらも怒らなかった。憤怒でもない、侮蔑でもない、悲哀でもない。瞳に残るは、絶望の一色。昔に自分の過眠が病といえるものであると告白した時や、症状が悪化していると報告した時と同じもの。いや、それらより深くて暗い。

 一番嫌いな、帆高の眼。不可抗力だとしても、できる限りさせないようにと誓ってきた、負の印。今、こうして進んで作り出した。他でもない、この自分が。でも、走り出して列車は止まらない、止めてはならない。

 ふと頬に水を感じた。かすかに吹いている風は冷気を帯びてきた。コンクリートの地面が細かな水玉模様に染まっていく。カウントダウンの始まりを告げられたような気がした。

「そんな裏切られたー、傷ついてますって顔しないでよ。もしかして飼い犬に手を噛まれるなんて予想外、よりによって、こいつごときにって感じ? いいじゃない、これくらい。今までさんざ、利用してきたんだから」

「……利用?」

「どこにでもいる至って普通の顔、頭も運動神経も平均以下で居眠り魔な取り得の無い幼馴染を気にかける優等生の絵面は、聖人君子のPRによっぽど役に立ったでしょ。先生からも生徒達からも人望を集めて、いまや次期生徒会長候補にまで登りつめたもんね。おめでとう。この先の進路も安泰でしょ。でも、まだ聖人君子として自惚れてたかった? 悪いけど、あたしは降りさせてもらうわ」

 なわけあるか、帆高の声にならない声は、口元の僅かな動きに留まった。知ってるよ、そんなことくらい。だからこそ、気づかない阿呆を演じる。自分にふさわしく。

「ぶっちゃけ優等生と劣等生って、いつも比べられてうんざりだった。‘何で一之瀬君みたいな人があんな子と’ってね。でもまあ、利用してきたのはあたしも同じだから、そのくらいのデメリットは仕方ないかぁ。随分と楽させてもらったよ。ちょっと努力して困って見せれば、何だかんだ言っても結局は助けてくれたし。ほんと、役に立ってくれた。これでイーブンじゃない?」

「珠結‼!」

「利用されていたとしても本望だって言ったのは、どこの誰?」
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