たとえばそれが始まりだったとして
けれどそれは杞憂だった。
気になって休み時間の度に前へ注意を向けてみたけれど、朝の取り乱しようは夢だったのかと疑うくらい彼女は落ち着いて見えた。俺同様この教室に知り合いはいないみたいで、ひとりでぼけっと窓の外の青い空を眺めていた。
全教科の試験が終わると、教室内の緊張も解け、忽ち緩い雰囲気に包まれる。各々試験の感想を交わし合うなか、他の生徒より余裕があったとは言え、俺も解放感にほっとひと息ついていた。今日の晩御飯はなんだろう、昨日の夜はカツカレーだったなと、母親の単純さにくすぐったい気分になって、さて帰るかと立ち上がる。
「あのっ」
掛けられた声に、そういえば消しゴムを貸していたっけと思い出す。
「消しゴムっ本当に有難う御座いました!」
「ああ、うん、どう致しまして」
消しゴムを乗せた両手の平を俺に突き出しきらきらと目を輝かせて見上げてくるその姿は、なんというか……まるで作物や年貢を献上する御百姓で、何だか変な気分になる。
だからなのか、貸した消しゴムを返してもらう気にはなれなくて、
「消しゴム、返さなくていいよ。そのまま、使って?」
そう口をついていた。
女の子はきょとんと俺を見上げている。その仕草に何故だかものすごくいたたまれなくなった。
「……えっと、じゃあ、俺帰るね。お互い、受かってるといいね」
妙な気持ちに焦らされて、女の子の反応も確かめずに俺は出口へと向かったのだった。
そして、大して感動のない中学の卒業式を迎えた次の日、俺は入試の合否を確認するため、再び東高を訪れていた。
結果は、まあ、予想通り、合格だった。必死で受験勉強をした思い出もなく、掲示板に自分の受験番号を見つけても、サッカーの試合で勝った時の喜びや達成感を感じる事はなかった。あるのは、落ちていなくて良かったという安堵感のみ。
そこでふと、入試の日に消しゴムを貸した―結果的にあげる事になった―あの子はどうだったのか、気になった。