たとえばそれが始まりだったとして
その幻のあんぱんが今、目の前に、手を伸ばせば届く距離にある。私には聞こえるぞ。食べて食べてと願うあんぱんの声が。
そろーっとあんぱんに向かって手が伸びる。が、あと少しで届くという時にあんぱんは目の前から消えた。
「小春。あんた、桐原と帰りたくないのよね?」
「うっ」
「別にあたしはいいのよ? あんたが嫌って言うなら仕方ないものね」
「ううっ」
「じゃあ、帰りましょうか。もう学校に用はないでしょ」
ああっ、あんぱんが遠藤の鞄の中に!
遠藤は髪を靡かせながら颯爽と教室を出て行く。どうする小春? ……えぇい、どうにでもなれっ。
「っ遠藤待って!」
―――……
そんなこんなで、こうして桐原君を待っているわけなのだけど。
あの後、追いかける私を振り返った時の遠藤といったら。満足そうに口元を上げて女王様も顔負けの笑顔で「いい子ね」と言ったのだ。当分は遠藤に逆らおうなんて無謀なことは考えないだろうな。
「はあー。あたしってつくづくあんぱんに弱いよなあ……」
まあ、あんぱんが弱点なら本望だ。決死の思いで手に入れた特製あんぱんは家に帰ってからゆっくり味わう予定。それにしても遠藤はどうやって手に入れたんだろう?
「……でさぁ、そこで木村のやつが先輩のボールを……」
「……うわぁ、木村こえー。てか先輩も先輩だよな、相手は木村だっていうのに……」
携帯で確認すると時刻は六時三十八分。恐らく部活の話題だろう、話しながらやって来た男子二人組はどこの部活だろうか。暗さ故堂々と観察が出来るのはいいけれど、目を凝らしてもぼんやりとしか捉えられない。結局部活の特定が出来ないまま男子二人組は車輪を鳴らし去って行った。……木村君何者?
「あれっ春日原さん?」
「っ!?」
自分の名前が自転車小屋に響き、どきりと心臓が跳ねた。
足音が背後から近付いてくる。やがてそれはすぐ後ろで止まり、私は意を決して体を返した。
「やっぱり春日原さんだ」