たとえばそれが始まりだったとして
私はその時点で逃げるという選択肢を捨てていた。言外に、桐原君は逃げても無駄だと言っている気がしたからだ。だから桐原君が自転車のスタンドを停めて向き合うように私の前に立ったのを黙って見ていた。
いまだ落ち着かぬ呼吸と、心臓の鼓動だけが私の意識を保っていた。
「……春日原さん。どうして帰ったりしたの? 俺を待っててくれたんだよね?」
桐原君にそう訊かれても、弱々しくその瞳を見つめ返すことしか出来ない。
「俺、嬉しいよ。春日原さん、俺と一緒に帰ろうって思ってくれたんでしょ? だったら、逃げないでよ。せっかく待っててくれたんだから、一緒に帰ろう」
そう言って優しく微笑んで片手を出す桐原君に、私は言いようのない気持ちが心に広がっていくのを感じた。
無意識に、その手を取っていた。
すると桐原君ははにかみながらも嬉しそうに笑みを深くした。
握られた手は、お日様のように温かかった。
「すき」
声が、私たちだけの空間をつくり世界から切り離す。
目を見開かせ言葉を失う桐原君に、もう一度、今度は微笑んでその言葉を口にする。
「すき――っ」
次の瞬間、握られた手を引っ張られ私は彼の腕の中にいた。鞄が手から離れどさりと地面に落ちる音がした。
「……まじで?」
信じられないというように聞き返す声は震えていた。
「うん。桐原君がすき」
ぎゅっと抱きしめられる。
微かに香る汗の匂いが、とてつもない幸福感をもたらす。
桐原君は私の肩を掴んでそっと体を離し、しっかりと目を合わせて、
「俺も。春日原さんが好きだよ」
そして私は再び桐原君に包まれた。今度は私も背中に腕を回してみる。
「あー、どうしよう。まじで嬉しいんだけど。やべー」
いつもと違う砕けた感じの口調が可愛くて、クスクスと笑みがこぼれる。
安堵感とともに、すごく幸せな気持ちになった。
けど、不意に桐原君から放たれた一言により、私は現実を突きつけられることになる。
「……じゃあ、改めて。春日原小春さん、俺と付き合って下さい」