たとえばそれが始まりだったとして
何も言えなかった。
どうして忘れていたのだろう。散々迷ってそれでも答えに辿り着けなかったのに。桐原君を待つのを躊躇った理由そのものなのに。あんまりにも桐原君の笑顔が優しかったから、思わず気持ちを伝えてしまった。
反応を示さない私を訝しんで、桐原君が僅かに体を離し顔を覗き込んできたのがわかったけど、私は俯いたままスカートをぎゅっと握っていた。
「春日原さん、どうしたの?」
戸惑った桐原君の声に、胸には罪悪感が広がっていく。
「……俺とは、付き合いたくない?」
聞こえた声には不安が滲んでいて、私は堪らずはっと顔を上げた。
その先にあるのが想像以上に悲しそうな笑顔で、驚きつつも私はつられて泣きそうになる。
「違う、違うのっ、そうじゃなくてっ。桐原君がすき、だけど、でも……っ」
「春日原さん、落ち着いて」
「桐原、くんっ」
「ちゃんと聞くから。大丈夫だから、ね? ゆっくりでいいから」
「……うん」
不思議だ。桐原君の笑顔は波立った心を落ち着かせる効果をもっている。ふわふわのあんぱんクッション並みの癒やしグッズだ。
私は深呼吸をして、ぽつりと話し始めた。
「あの、ね、あたし、本当に桐原君がすきだよ。これは嘘じゃない」
電灯に照らされた桐原君が、穏やかな表情で頷いたから、私は安心して次の言葉を続けた。
「でもね、あたし付き合うって、よくわからないんだ。お互いに好き合ってるならそれでいいんじゃないのかな。だって、付き合ってるからって必ずしもお互いが好きなわけじゃないでしょ? 形式だけのカップルなんてきっと沢山あるもん。形式がなくても、気持ちがあればいいんじゃないの? それに……形式があるから、別れも明確になるんだよ」
つまりはなんだかんだ言っても、私はただ別れが怖いだけなのだ。だから付き合うという形式に、臆病になる。
私の話に静かに耳を傾けていた桐原君が、やがてゆっくりと口を開いた。
「……春日原さんはさ、それで不安じゃない?」
抽象的な台詞に私は首を傾げる。