追憶のマリア
 母は5分程待って、そっと玄関のドアを開けた。


 秋のひんやりした空気がスッと母の中へ流れ込み、その冷気に気管支と肺が綺麗に洗われたような気がした。


 恐る恐る外を覗いてみる。


 辺りは静まり返っており、アパートの前の通りは人通りもなく、昨日乗りつけた母の軽自動車が、道路の端にポツンと寂しげにとまっていた。


 母は思い切ってドアを飛び出し、全力で2階の通路を駆け抜け、足がもつれそうになるほど急いで階段を降りた。


 が、降り切ったところで、突然何者かが母の前に立ち塞がり、勢いがついていた母は避けることもできずに、そのまま激しくぶつかった。


 母は、背の高い男に抱きかかえられ、動きを封じられた。


 母が思わず叫び声をあげようとすると、素早く口を塞がれた。


 口が塞がれながらも必死でもがき、なんとか大声を出そうとするも、そんな努力は大きな手によって空しく阻止される。


 ツヨシは、母の脱走を予測して、階段の下に身を潜めていたのだった。


 ツヨシは『シーーー、シーーー…』と、母を落ち着かせようとするかのように、口から空気を漏らすような音を出す。


 母はツヨシの手で覆われた口でモゴモゴ叫びながらしばらく暴れたが、半ば諦めに似た落ち着きを次第に取り戻し、それが母の動きをようやく静めた。


「あの光が見えるか?」


 ツヨシは、母の口を塞いだまま、アパートから道路を挟んだ向かいのマンションの上層部に視線をやった。


 母が潤んだ目でツヨシの視線の先を追うと、高層マンションの上層部の真ん中辺りで、何かが光っているのに気付いた。


「あんたがもしアパートを離れたら、アイツに頭をぶち抜かれる。」


 そう言ってツヨシは、その光に向かって天を仰ぐように、大きく左手を振った。


 その瞬間光は消失した。


 そして母は、強引に部屋に連れ戻される。


 部屋に入るとようやくツヨシは母を解放した。


 母は行き場の無い怒りに、悔しそうに唇を噛み締め、目に涙をためツヨシになぐりかかった。






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