紅芳記
一月後、長月の初めに届いた世都からの書簡によると、太閤殿下はその死の間際に老中、奉行職なるものを設置して秀頼君の補佐をお命じになっていたそうでございます。
老中には豊臣政権下で権勢を誇った徳川内府様、太閤殿下と後懇意にされている前田の加賀中納言様(前田利家)、その前田様の娘であり太閤殿下の養女を妻にしていらした宇喜多備前宰相様(宇喜多秀家)、そして義の心を掲げた太閤殿下のご信頼の厚かった上杉宰相様(上杉景勝)、 更にこれまでの功績から毛利安芸中納言様(毛利輝元)の五大大名がお付きになっていたそうです。
この五名の年寄衆は後に豊臣五大老と呼ばれるようになります。
そして奉行には太閤殿下の名の下にこれをよく補佐した側近のが主だったものを取り仕切り、その五名が後に五奉行と呼ばれました。
その主な奉行職は、浅野弾正様(浅野長政)、石田治部少様、増田右衛門尉様(増田長盛)、長束侍従様(長束正家)、前田玄以様でございます。
老中の筆頭は徳川内府様で、その権勢は淀のお方様や秀頼君をも上回る勢いだとか。
内府様は禁止されていた大名同士の勝手な婚姻やに踏み切り、まさしく御自身こそが天下人であるようなお振る舞いで、それに反発した豊臣恩顧の大名との間には亀裂が生じているそうでございます。
我が殿は、石田様と親しくしていらっしゃいました一方、徳川との強い結びつきから板挟みになってしまっているのではないでしょうか。