海が泣く夜
 彼は突然咳き込み、まだ消化すらされていないブドウを嘔吐する。

 私に見えぬようにと口を覆うが、そんなことよりも前髪の隙間からちらつく潤んだ瞳が苦しそうで、胸が痛む。


 決して当たり前にしてはいけないのに、もう見慣れてしまった光景。

 彼の体は、いつまでもつのか分からない。

 『ずっと』なんて言葉を日常的に使っているが、ここでは絶対に言わない。

不確かなものを肯定するような真似は絶対にしない。


 君はずっと生きていけるよ。

君は絶対に死なない。

そんな都合のいい気休めは、きっと彼を苦しめる。

 ブドウさえも受け付けない体になってしまった彼が、もうすぐ死んでしまうのは私にだって分かっていた。


「大丈夫。また買ってきてあげるから」

「ありがとう。でも……もういらない」

 優しい笑顔と共に、役目がひとつ減った。


 骨と皮だけと言っても過言ではない体。

あんなに好きだったものも食べられないの?

 愛しい人が弱っていくのを見るのは、想像以上に辛いことだった。
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