君の声が聞こえる
 そういえば、結婚してからというもの、僕は雅巳の幸せそうに笑う顔しか思い出す事が出来ない事に気が付いた。

付き合っている頃はあんなに、寂しそうだった雅巳が僕といる時はいつだって幸せに笑っている。

「だからってこんな所まで迎えにくる事ないじゃないか。……大切な体なんだから」

 僕は雅巳のお腹の中にいる命にすら憎しみを覚えている。

それなのに、口から付いて出た言葉が、こんな言葉だなんてどうかしている。

 そして言ってしまってから、大切なのは雅巳の体なんだから当たり前だ、などと心の中で言い訳までしている自分が滑稽に思えてきた。

「雅巳、話したい事があるんだ」

「あら、私もよ。でも、ここで話したくないわ。私達の家に帰りましょ」

 雅巳はそういってテーブルの上の伝票を取り上げると、椅子から立ち上がった。天使の笑顔は全開である。

この笑顔に逆らえる人間がいたら、是非お目にかかりたいものだ。

 僕だって例外ではなく、雅巳に言われるままにフラフラと立ち上がって店を出た。

 外は春の風が吹いていた。


 駅前のこの喫茶店から僕達の住むアパートまでは歩くと距離がある。


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