今日、世界は終わるのだ
「リナ」
初めて名前を呼ばれて、何故か反応が遅れる。
「……なに」
たっぷり時間を掛けて答える。
低すぎない透明な声は、歌えば最高にクールなのだろうと、意味もなく私に思わせた。
(――妙な話、この傷を負った男がよもや私の名前を呼ぶ時が来るとは、思ってもいなかったらしい)
名前を聞いておきながら、馬鹿馬鹿しい限りだわ。
「……グラム」
そして脈絡なく男の唇から飛び出した単語に、私は眉を顰めた。
「なに?単位?」
「名前、俺の」
「……あぁ」
――グラム。
変な名前。それにしても随分、あっさりと出てきたな。
(……グラム)
傷だらけの体を覆う包帯を解きながら、頭の中でその名を繰り返し繰り返し呼び続ける。
「……っい、てぇ」
「我慢」
包帯の下から表れた傷を気遣いつつ、温めたタオルで満身創痍の体を拭いていく。
時々、痛みに顔を歪める仕種がなんとも私をそそっては繰り返すので、大変困る。
痛々しい傷に触れないよう細心の注意を払いながら、爛れた体を拭き終えてから傷を消毒した。
「……は、っ」
未だに体は熱を持っている。
せがまれたとは言え、一日中、素人ピアノなんぞ聴かせてないで寝かせていれば良かったと、今更ながら後悔して舌打ち。
「水、飲む?」
苦しいのだろう。
口許を歪めながら小さく頷くグラムに、私はそっと口付けた。
喉が水を奥に流し込むのも億劫らしいその様子に、欲情しそうになる。
「グラム」
「……んだ、よ」
「医者、呼ぼうか?」
「やめろ」
「どうして」
「……っ良いから」
痛みを堪えながら強がられても。
「ねぇ」
ベッドの脇に腰を下ろし、咥内に水を含む。
「なにしたの?」
「あ?……ングッ」
関係ない、とグラムが口走る前に、私はその唇の奥に水を流し込んだ。
不意を突かれた男は、痛みに喘ぎながら咳き込む。
「ねぇ」
「っ、ん、だよ」
ミネラルウォーターのボトルをソファに投げて、空いた手でグラムの傷だらけの胸を撫でた。
掌を滑るざらざらぐちょぐちょの、痛ましい皮膚の丘。
「どうして、こんなことになったの?」
話しながら、包帯の流れに沿うようにゆるりと胸から首筋に指を這わす。
憐れな体が戦慄いた。
「――ねぇ、どうしてさ」
首筋の傷に舌を這わせると、グラムは小さく喉で鳴いた。
「っ、関係ねえ」
精一杯吐き出されたその言葉に、浮かぶは嘲笑。
「あのさぁ」
呆れも露に苦笑して、グラムから顔を反らした。
無意識に煙草に手を伸ばし、火を点ける。
「あんた、私に生かされてるってこと、解ってる?」
ふうと紫煙をグラムの顔にわざと吐き出せば、苛立たしげに釣り上がった目尻。
それでも、悪態すら零れない。
「……答えなよ」
煙から逃れるように背けたグラムの顎を乱暴に掴み、こちらへ引き寄せる。
睨みつけてくる視線を絡み合わせて、鼻頭が触れ合うまで、近づいて。
「離せ」
不機嫌な声。
ねぇ。
なにから逃げているの?
私の言葉にグラムはその灰緑の瞳を少しだけ揺らす。
それでもすぐにまた睨みつけてきた。
生意気で凶暴な、魅力的な双眸。
「……寝る。手、どけ」
途切れた。
黙ったままの私の腕を力なく掴むが、自分の胸に置かれていた指の傷にふと気付いたらしい。
傷で皮膚が埋まるほど重症の男に凝視される、私の小さな小さな、傷。
「……寝なよ」
結果を伴わない下らないやりとりにも飽きてしまって、無理矢理、グラムとの掛け合いを止めた。
なにか言いたげな赤く腫れた唇は、けれど私の表情を見て、無駄なお喋りをやめる。
(そんな罪悪感丸出しの表情なんかされたら、尚更、嗜虐心も萎える)
「おやすみ、グラム」
そうして、なにも言わないまま素直に目を閉じたグラムを見届ける。
長く跳ねた金色の睫毛が、ぴくぴくと震えた。
観念したのを見届けて、煙草を灰皿に押し付けた。
音をたてないように立ち上がり、風呂場へと向かう。
(あぁ、明日も仕事だ)
明日こそはピアノのレッスンに向かいたいのだが――。
ふと、今の自分が果たしてピアノに集中できるのか考えた。
仕事とレッスンで帰りは夜十一時を回る。
その間、あの手負いの男は完全にベッドの上で放置。立ち上がる事も、物を掴む事も出来ないのに。
(そんな男を放って、ピアノのレッスンに集中できる?)
――否。
そう決断を下し、潔くそれらは諦めた。どうせグラムが死ぬか治るかまでの期間だ。
素早くシャワーを浴びた後、冷えたビールを手に寝室へと戻る。
以前は裸でベッドに潜り込み、ビール片手に眠りに就いていたというのに、つい先日からベッドには先客がいるというのが、不思議な感覚だった。
呼吸すら煩わしいと嘆く、〝私のベッド〟の、住人。
はっきり言って邪魔だ。
特定の恋人はいないけれど、心の隙間を埋めるような、下らない時間を共に愉しむ男も呼べやしない。そもそもベッドでゆっくりと眠りたい。
(……ここまで尽くしてるのに、不明確な事が多すぎて、苛々する)
ハッキリしないのは嫌いだ。
実態が明確にならない限り、きっとグラムに対して苛立ち続けるだろう。お門違いなのは承知の上で。
出来れば早く出ていって欲しい。
それなのに、正直なところこの男を手放す事を惜しんでいる。
子供がキレイな猫を拾い、両親に叱られてなお、それを手放す事を躊躇うように。
(なまじ見た目が綺麗だったのがいけないな。怪我で顔もぐちゃぐちゃになっとけばよかったのに)
果たしてぐちゃぐちゃの彼と言葉を交わし、中身をちょっと知った気になって、惹かれないとは思えないが。
「――おい、」
不意に、馬鹿げた考えに没頭していた私を呼び覚ます声がした。
「起きてたの」
見れば、全身ボロボロの中でも特に目立つ艶やかな灰緑が、こちらを見ていた。
「眠れねぇ」
「子守歌でも歌う?」
「耳が腐る」
失礼な、聴いたこともないくせに。
まぁ確かに、ピアノ同様、人様に聴かせられるような美声は持ち合わせてないが。
眠くても眠れないとは不憫だ。意識があれば傷も痛むだろう。
憐れんだまま、半分になったビールを掲げた。
「飲む?」
「あぁ、て、おい」
外から入ってきた遠くのネオンが、冷たい室内にささやかな温もりを作っている。
そんな中途半端な暗闇での私の姿に今更気付いたのか、グラムが不愉快げに眉を寄せた。
「女だろ」
「だから」
「服着ろ」
「なに?気になる」
「なんねーよ」
「なら良いでしょ」
不機嫌そうに唇を結ぶグラムに近づき、ビールを口に含んだ。
「貧乳」
「訂正して。これは、スレンダーって言うのよ」
減らず口を引き寄せて、私は含んでいたビールをその咥内へ流し込んだ。
「……っ、不味い」
「美味いなんて言ったら味覚を疑う」
冷えているから美味いのだ。私の咥内で温まったビールなど飲む価値もない。
「ブランデー……」
「ないよ、んなもん」
第一、もしブランデーがあったとしても自分で飲めるようにならなければ意味がない。
私がそう言うと、グラムは不貞腐れたように、またもや寝る、と呟いて目を閉じた。
(…ブランデーまで口移しなんて、冗談じゃない)
私はビールを呷りながら、グラムの金髪に触れた。
まだ眠りに就いていないことは解っているが、柔らかそうな金糸に触らずにはいられなかったのだ。
グラムはぴくりと頬を震わせたが、瞼を閉じたまま私の控えに控えた愛撫を受け入れている。
この髪を見れば、栄養は充分に足り、標準的な生活をしてきていただろうことが解る。
泥水を啜って生きているような人間は、すぐに髪に出るから。
最低限の手入れもしてあり、栄養も行き渡っている。
つまり、この大怪我を負う前は、〝標準的〟な状態だったということだ。
それが何を間違って、こうなってしまったのか――想像力が足りない。
触れた髪にはこしがあり、ろくに拭いてもいないので多少脂っぽい。
けれどそれが逆に髪をしっとりとさせ、指先に優しかった。
――静かだ。
もう今日が終わるというのに、雨足は弱まりそうにない。
独りの部屋に響いていた雨音は酷く素っ気なく冷たく感じていたのに。
(人がいるだけで、こうも違う)
静寂に変わりはない。
それなのに指先の金糸はあまりにも優しく、温かいなんて。
面倒事を自ら招き入れた本当の理由を誤魔化すように、私は残りのビールを飲み干した。
馬鹿らしい限りだ。