今日、世界は終わるのだ
「まだ、見つからないのかね」
自慢のバリトンが煉瓦の壁に木霊した。
元パルプ工場だった内装はいつもと変わらず、自らが選りすぐった人材達が寝る間を惜しんで仕事に勤しんでいる。
以前との差違と言えば、この広いオフィスを傍若無人に歩き回る、異様に目立つ金色の男がいないこと。
「テリ、まだ彼の居所を掴めないのかね」
コーヒーの芳しい香りに鼻孔を擽られつつ、パソコンをいじる青年に捜査の進展を尋ねる。
テリと呼ばれた青年は産まれつきの癖毛を指で弄りながら表情を曇らせた。
返事は芳しくない。
「巧く隠れてますよ。どこにも引っかからない」
諦めた、とでも言うようにパソコンから手を離し、彼もコーヒーを啜る。
バリトンからも自然、溜め息が漏れた。
「国外は?」
「可能性はゼロじゃないですが、どうですかね」
「……あの怪我ではね」
バリトン――このオフィスのオーナーである男から、更に深い溜め息が吐き出された。
らしくないヘマをしたお陰で、つい先日からとんだ面倒を背負う羽目になっていた。
自業自得。しかし、目的の男に苛立ちを覚えずにはいられない。
「相手が悪い」
己の考えを見透かした様に呟いた癖毛に、バリトンは苦笑する。
「全くだ」
クライアント達もそろそろ痺れを切らしている。彼一人いないだけで仕事の進みの悪いこと悪いこと。
「幸い、連続殺人事件の犯人逮捕の捜査を隠れ蓑に虱潰しに探してやれる。その為にも、場所の特定を早急に頼む」
オーナーの言葉に頷くと、テリは再びパソコンへと向かった。
四角い画面に映し出された地図を見て、調査が終わった場所をもう一度クリアにして探しなおすことにした。
(……どこにいるのさ)
消息を断った仲間を思う。
強烈な印象は未だ鮮明だ。
平穏とは程遠い位置で生きる自分達と同類でありながら、どこか異質さでは抜きん出た男。詳しい事はなにも聞かされていないが、一体どういう経緯で失踪したのか。
彼が逃げ出す間際、垣間見た襤褸雑巾のような身体が蘇る。
「全く……」
死んでくれていたほうがまだ手間が省けるというものだが、それでもあの男はしぶとく生きているのだろう。
拷問で致死の傷を負いながらも、この捜査網の中、完璧に姿を消すような男だ。
(……彼の生命力はゴキブリ並みだと誰かが言ってたっけ。……本人だったかな)
仲間の誰一人、あの傲慢であり粗雑であり魅力的な男が死んだなどとは思っていない。
「悪魔に炙り出される前に、出てきてよ」
高い煉瓦造りの天井からぶら下がるライトは消えることなく、夜は明けていく。
※
昨夜の事件がニュースで流れていた。
朝っぱらから珍しくニュースを見たのは、チャンネルを握ったのが私ではなくグラムだったからだ。
私はアナウンサーの甲高い声で目を覚ました。寝惚け頭で、何故、自分がソファで寝ているのかを考える。
(――あぁ)
ガキっぽい意地を張った結果が、この骨の軋みか。やはり眠るのはベッドがいい。
「……リナ、見ろよ」
原因になった男は私を見ることなくテレビ画面に喰いついている。
おはようくらい言え。
「ニュース」
てかあんた、なんでそんな元気そうなの。
私は醒めきらない頭のまま、アナウンサーの声に耳を傾けた。
『――昨夜未明、スラム街のアパートメントで、二十八歳女性の遺体が発見されました。ニューヨーク市警は先週からスラム街で起きている連続殺人事件との関連も含め捜査を開始するとの発表を……』
無機質な声が長々と語る背景に、キャジー殺害の現場が控えめに映されていた。
(キャジー、あんた三十路前だったのか……)
寝ぼけ頭での精一杯の感想がこれだ。ニュースを見る資格もキャジーを悼む資格もない。
「連続殺人事件なんか起きてたんだ……」
「なんで知らねえんだよ……」
呟いた独り言を耳聡く拾われる。
「知ってたの?」
「今、知った」
おい。
反論しようと口を開くが。
重度な怪我人はともかく、社会に出ている健康体のお前が知らないのはおかしい。
大体、自分が生活してる地区で起こっている凶悪事件くらい把握しておけ。危険な場所に暮らしているという自覚くらいあるだろ、まさかそれもないのか――と長々と説教を喰らった。
「テメェがいつ犠牲者になるかもしれねーんだ。俺に対しても世間に対しても、警戒心くらい持て」
長ったらしい説教の締めくくりに、私は眉間に皺を寄せた。
その危険なエリアで、致死の怪我を負ってのうのうと死にかけていた男が偉そうに。
この部屋で一番不利なのは、自分の体一つ満足に動かせない誰かさんに決まってる。
顰めた眉を戻し、私はそれと引き替えに口元に嘲りを浮かべた。
「あんたの方が警戒心は必要なんじゃない?」
だって、私が居なきゃろくに食事もできないくせに。
「もしかしたら気が変わって、私があんたを殺しちゃうかもしれない」
完治していない傷だらけの腹に跨る。
わざと体重を掛けると、傷付いた喉が小さく呻いた。
「ほら、まだこんなに酷い傷がある」
血が滲んだ包帯を爪で軽く引っ掻いた。
痛みに、「きれい」が歪む。
「……テメェに、んな真似出来るか」
苦しみながらも私を馬鹿にするようにせせら笑う。
けれど笑いに震えた腹が痛かったらしい。笑顔はすぐ崩れた。
「バカじゃないの」
どれだけ穏和な人間だって、誰かを殺してやりたいという衝動に駆られることがあるのだ。
境界線を踏み越えるか越えないかで、人間なんて簡単に墜ちるように出来ている。
殺さないなんて確信、幻想でしかない。
(……ましてやこの街は、その境界線が酷く曖昧な場所だから)
「この俺が、女なんかにやられるかよ」
――ふん?
依然、痛みに耐えつつ生意気にも微笑を浮かべるグラムから目を逸らし、私はベッドから降りた。飽きた。
「あんたのせいで遅刻だわ」
行き場のない焦燥。
八つ当たり気味にミネラルウォーターのボトルを投げつければ、相当な勢いでそれはグラムの頬を掠めた。
「あぶね……」
「いってきます」
飛んできたボトルに肝を冷やしているグラムを横目に部屋を出る。
(どうして、焦ってる?)
「知るか」