今日、世界は終わるのだ
『――テリ』
昼間は滅多に連絡を寄越さないオーナーから電話があった。
やけに弾んだ声に嫌な予感がして、返事をしたくない。
「……サー?」
『見つけたかもしれん』
電話と同じく唐突な言葉に、テリは思わず誰を、と尋ねそうになった。なんとか寸ででそれを飲み込む。
――見つかった、だなんて。
〝なに〟についてか解りきっている。
「動きます?」
『いや、まだ動かなくていい』
「……ですが」
『先手は打ってある』
お早いことで。
テリは内心で皮肉を呟き、見えないのを良いことに肩を竦めた。
「それで、場所は?」
『……動くな、と言った筈だが?』
全く底意地の悪い上司で嫌になる。
彼の下について数年、今更ではあるが。
「動くなとは言われましたが、なにもするなとは言われてませんから」
従順な部下の言葉に、横暴な上司は満足したらしい。
『さすが私の部下だ。配置する班はお前に任せよう』
「イエッサー」
テリは左耳と肩の間に受話器を挟み、煉瓦のオフィス内にて自分と同じく仕事をしている仲間数名を、ジェスチャーで呼んだ。
「――ところで、ボス」
『なんだね?』
「例の議員、そろそろ痺れ切らしてますけど」
『あぁ、依頼内容はなんだったかな?』
「もうすぐ次の選挙ありますよね。その対抗馬の暗殺だそうです」
『つまらん仕事だ』
「いや全く」
しかし相手は七光り議員。金だけはたんまり懐に貯めている能なしの上客だ。
選挙時期に殺されれば対抗馬として争っていた男が怪しいと馬鹿でも考え付くだろうに。
『事故死希望だろう。それくらいなら他が居るだろうが…』
「そうなんですけど、頼りになりそうなのは全員他の仕事に出ばってて」
『……全く一人抜けただけで、困ったものだ』
「今までは暗殺依頼の半分を彼がこなしてましたからね」
そう言うと、受話器の向こう側から溜め息が聞こえてきた。
『だからこそだ』
――だからこそ。
『必ず、連れ戻せ』
逃げた男に縋りつく。
滑稽な話だとは思うが、逆らう理由もないので黙って指示に従った。
(それほど、欠けたパーツは重要な部分を占めていた……)
この組織にしても、仲間達にとっても、彼を育てた上司にとっても。
「……まだまだ現役の、イソップのアヒル、か」
脱走犯に同情しつつ、しかしこれは仕事だと思考を切り替える。
友人でもある彼を連れ戻すための采配を他の仲間達と念入りに配しながら、テリは疲労の濃い溜め息を吐いた。
※
「ただいま」
会社からの帰路、雨に降られた。
ぐっしょりと濡れた体を引きずるようにしてアパートメントの扉をくぐる。冷えた。
「よー」
そんな私の目に飛び込んできたのは、人様のベッドに横柄な態度で横になりテレビを見ている男。その男の手には。
「ピザ」
「……ちょっと、まさか外に顔出したわけ?」
こっちはハジの事でひどく頭を悩ませていたと言うのに、当の本人は無頓着過ぎやしないか。
「部屋の前に置いていかせた」
チーズが糸を引くピザを咥え、グラムはテレビから視線を外さない。
「あと、金借りた」
「今すぐ返せ」
「そのうちな」
「くたばれ」
なけなしの金を!
「仕方ねぇだろ」
「大体、怪我人がピザなんか喰うな」
腹立ち混じりに愚痴を零すけど。
(……良くなってる)
回復の文字と共に浮かぶのは、〝別れ〟だ。
考えて、妙な焦燥に駆られている自分をなじりたい。
それを誤魔化すように、私はグラムの手からピザを取りあげた。
「先に風呂だろ」
「やだ、父親みたい」
「ほざけ」
笑う、笑う、笑う。グラムが楽しげに笑う反面、私が眉を顰めてしまうのは。
「……機嫌、いいね」
「だいぶ動けるようになったからな」
あぁ、そう。
ピザの注文には電話が必要で、その電話はキッチンにある。電話を使うには、そこまで歩かなきゃいけないわけで。
死にかけのミイラ男は、着実にヒトへ近付いている。
「良かったね」
別にそれが許せないわけじゃないんだけど。
それだけ吐き捨てて、私は浴室へと直行した。
「……本当のバカだね、あんたって」
鏡に映る自分自身に吐き捨てる。
――逃げたわけじゃない、決して。
望んでいたことだ。
動けるようになったのだから、この部屋からグラムが出て行くのも時間の問題。
(……そうだよ、リナ)
厄介事は、早めに手放すに限る。
手遅れになる前に。
「なに見てんの?映画?」
風呂上がり。私が手にしていた缶ビールに、テレビを見ていたグラムがちらりと視線を寄越す。
「……俺には」
「残念。これがラスト」
「寄越せ」
「冗談。水でも飲みな」
伸びてきたその手を避けて鼻で笑ってやれば、テメェ、の一言。全く口の悪い。
「飲ませろ」
私が一口煽ってすぐ、それはグラムに奪われた。
包帯に覆われた喉がごくり、黄金を嚥下する。
私はそれを、妙に感慨深い気持ちで眺めていた。
(……あぁ、そうか)
もう口移しの必要もないってことか。
「――」
馬鹿馬鹿しい。考えない方が身の為だ。
照明を点けていない室内は、テレビだけを光源に照らされている。映画の音と混ざる、ささやかな雨音。
横に座るグラムはベッドに腰掛けたまま壁に凭れ、ビール片手にさもつまらんと映画を眺めていた。
一方私は、体育座りのままシーツにくるまり鼻を啜っている。
「グスッ」
「……三流映画で泣くなよ」
数分前からピザを食べる手も止めて映画に見入っている私に、グラムは呆れて物申す。
「ほっとけバカ、ひくっ」
ヒューマンドラマにめっきり弱い私の涙腺は、家族の元へ戦死した父親の訃報が届いた時点で崩壊してしまっていた。
「……鼻、垂れてっぞ」
グラムが呆れ顔でティッシュを渡す。
素直にそれを受け取るが、その時には既に私の周りは使用済みのティッシュが花の様に散らばっていた。
やがて、涙で霞むエンドロール。
「グスッ」
久々に泣いたせいか、穏やかな疲労感に睡魔が便乗してきた。
耳を撫でる雑音、程良い酒の力に圧されなんとも心地良い。
思えば、横の男を拾ってから健やかな眠りに就いた試しがない。
久々に泣いたこともあり瞼も重い。これはもう、今すぐ眠れという神の思し召しに違いないだろう。
欲求に素直に従ってベッドへ横になり、殊更ゆっくりと瞼を閉じた。
「おい、リナ」
そこへ沸く、小悪魔の声。
うるさい。今にも睡魔の喉元に墜ちそうだった私の肩を、痛ましげな手が揺さぶる。
「なに……」
唇を動かすのも億劫で、私はくぐもった声を出した。
「ピアノ、弾かせろ」
バカ、間抜け。今、何時だと思ってんの。近所迷惑になるでしょ。
しかもお願いを命令文にするとは何様のつもりだ。
それを口にする事すら面倒で、私は一番楽な動作を選ぶ。
ヒラヒラと投げやりに手を振る私を見て、グラムは慎重にベッドから降りた。
やはりまだ完治した訳じゃないようだ。動作の度に起こる音すらぎこちない。
ついでに言うと、ピアノの鍵盤を押す指もぎこちない。
(……なに安心してるんだ、私は)
――バカで薄情な、可哀相なリナ。
ポーン……。
拙い音は子守歌になる。
薄目を開けて奏者を視界に映そうと試みたが、重い瞼はその姿を認める前に重い幕を閉じてしまう。
やがて、拙いながらも聴いたことのあるメロディが流れ出した。
(この曲……)
ついこの前の休日、グラムにせがまれて即興で弾いた曲だった。
所々音は外れているが、ちゃんと音楽になっている。
「……あんた、ピアノ弾いたことあるの?」
襲いくる睡魔と闘いながら、やっとの事で言葉を吐きながら。
「いや、触るのも初めて」
グラムは振り向きもせず答える。
瞼を上げると、私の煙草を吸いながらピアノを弾くグラムが居た。
細く緩い白煙が、音の振動で軽く揺らめいている。
「オマエ、なんでピアノ始めたの?」
なんだその言い方は。
「……私にピアノは似合わないって?」
その言葉に引っかかり、私は困った様に苦笑した。
煙草をふかしながら偉そうにピアノを弾く男は、私に身の上話でもさせる気なのか。
「少なくとも、ピアノを弾くようなタイプには見えねえ」
「悪かったわね」
まぁ、確かにそうなんだけど。
毒気を抜かれ、なんとなく睡魔に水を差されて目が冴えてきた。
それでもまだ重い瞼を引っ提げて、ギシリ、立ち上がる。
「煙草」
ピアノに近寄り、グラムの隣に腰掛ける。
グラムは吸っていた煙草を包帯と血にまみれた指で私に手渡した。
フィルターに血が滲んでいたそれを手では受け取らず、唇で受ける。
「……死ぬほど、嫌いだった」
煙を唇の隙間から吐き出しながらの言葉に、グラムは眉を寄せる。
「なにが」
「ピアノ」
鍵盤を叩くグラムの手を眺めながら、その包帯巻きの手とは似ても似つかない手が重なる。
「父親が音楽教師でね、……厳しい人だった。自分にも家族にも、徹底的に」
私がなにか悪さしたら、必ず正座させてピアノを聴かせた。
何時間も何時間も何時間も。足が痺れて立てなくなるまで。
再びグラムの唇に煙草を戻し、鍵盤に手を置く。
「だから大嫌いだったわけ。ピアノは、聴くのも弾くのも」
当時の父も母も、私にピアノを弾いてほしいと何度も言っていたが、私は頑としてそれを受け入れなかった。
とうとう口煩い二人から離れたくてアメリカの大学を受けた。
「……それがどうして、弾くようになったんだよ」
私のピアノ嫌いを知る友人達と同じような事を言う。
拾われただけの、小汚い猫のくせに。