今日、世界は終わるのだ



「テリ」

連日連夜の捜索。
寝不足で意識が朦朧としているテリに対して、目の前の上司は酷くご機嫌だった。

「ホテルの予約を頼む」
「ホテル?仕事で?」
「不粋だね。女性だよ。宿泊はいいからレストランに予約を」

上司の言葉にテリは苦笑を浮かべた。
長年付き合ってきた上司の、性癖及び女性遍歴を知っている立場としてはその女性に同情せざるをえない。

「久々ですね」
「なにがだね」
「女性ですよ。最近は仕事一筋だったでしょう」

それこそ病気かと疑うほど、女に時間を割いてはいなかったのに。

「言うなれば仕事の一環さ」
「……それは、また」
「猫を釣る餌にしては、楽しめそうでね」

職場から出ていく上司を見送りつつ、テリはニューヨークでも五本の指に入る格式高いホテルレストランに予約を入れた。そう簡単には予約を取れない場所ではあるが、我が上司のネームバリューは絶大なのである。

「テリ」

そこへ赤茶の坊主頭が顔を出した。これでも女性だ。

「ダリ」

テリの双子の妹であり、この古い煉瓦オフィスの管理を任されている。
組織から逃げた男とは、悪友だった。

「準備、済んだよ」

裏切り者を連れ戻すために。
自分も、彼とは友ではあった筈なのだが。

「お疲れ様。あとはボスの指示を待つだけだよ」

笑顔と共にそう労えば、妹は神妙な顔をして黙りこくってしまった。
彼女がなにを考えているのか承知していて、それでもそれを聞くこともせず、仕事を進める。
ガラス張りの私室からは、数十名の有能な人間が働いている様が一望できた。
様々な技術者達が集結するこの組織内でも頂点を極めていた男の失踪は、ごく一部の人間にしか知らされていない。

「……奴は、戻りたがらないと思うよ」

自分のよく磨かれた爪先を見つめながら、ダリが絞り出すように言った。

(そうだろうね)

あの無駄にプライドの高い男が自ら逃げ出したのだ。
一度逃げ出しておいて再び大人しく戻ってくるなんて無駄なこと、する筈がない。

「敵うと思う?」

逃げた男は手強い。なにせこの組織を創設したオーナーのパートナーだ。
彼がいなければ、オーナーはこの組織を作ることも思いつかなかっただろう。

「……ボスが出れば、或いは。それに彼は、重度の怪我を負っているからね」

テリの冷静な言葉に、ダリはとうとう顔を上げた。
読み取れるのは、焦燥と困惑。

「それでも、この組織で一番強い男だよ?」

解っているよ。だからこそ、だからこそ、この組織には必要なのだ。勘も、知識も、強さも。

「……経験もね」

まだ若くあるその男に圧倒されることが多々あった。
銃火器や薬物の知識、取り扱い、コンピュータへのハッキング、必要ならば孤島の刑務所やホワイトハウスへの潜入を難なくやってのける度胸と技量。
オーナーハジ自ら教え込まれたそれらの技術は、絶妙のバランスを以て身につけられていて、なにより彼の飄々とした無邪気さが、彼を彼なしえていた。

「そうだよ。ここに居る誰よりも経験を積んでる」

デリが爪でデスクを弾く。ご機嫌斜めを示す、彼女の合図。

「だからこそ、逃げ出した」

血生臭い仕事を繰り返し繰り返し任されてきた男は、ついにはそれを放棄したのだ。

「あいつは多くを殺してきた。自分とは凡そ接点のない、無関係の人間を」

組織に入る多額の資金と報酬とを引き替えに。
――そうして、抑え込まれていたもの。


「ダリ」

感情を抑えた声で名を呼べば、憤慨する妹は口を閉じた。
解っているよ。その気持ちはきっと、同じだから。

(でも)

「これは仕事だから」

仕方がないことなのだ。
悔しげに唇を噛んだダリが俯く。
可愛い妹であり信頼する仲間でもある彼女に、テリは微笑を浮かべた。

「話は終わり。仕事に戻ろう、ダリ」

そうして無言で出ていった妹を横目に。

「ダリは留守番だな」

〝標的〟に、彼女は深く関わりすぎている。
私情を抑え切れず支障を来してしまうなら、酷ではあるが彼女をこの任から外すべきだろう。冷静に対処できないなら、下手に手出しさせるわけにもいかない。
なにせ相手は、生半可な覚悟でやりあえるほど容易い男ではないのだから。

(それに、連れ戻した時、誰かひとりでも、罪悪感なしに彼に接せられる人間がいたなら、――)


「恨まれるかな……」

テリは何度目か解らない溜め息を、深く深く吐き出した。








ハジという男は、相当怪しい。
これはただの女の勘でしかないが、この意見にボスも賛成するだろう。

「ボス」
「なんだ、リナ。金の貸し借りなら受けないぞ」

なんの話よ。

「……そんな話、一体誰が掛け合ったんです?」
「なんだ違うのか。どうした」

ハジとのディナーに不安を抱え、私は彼への対策を練ることにした――とは言っても、平凡な女がそう巧い手を思いつくわけもなく。
藁にも縋る思いで、ツルッパゲの元軍人に縋ってみることにしたのだ。

「ハジ警部のことなんですが」
「なんだ。ベッドにでも誘われたか」

あからさまな物言いに、私は不快を露にする。セクハラだ。

「食事には誘われました」

食事には、を強調する刺々しい声色を一蹴するように、ボスはさも愉快だと笑い出した。
豪快な笑い声は、プライベートオフィスの外へも漏れ聞こえるらしく、仕事をしていた数人がこちらを振り向いた。

「男が誘うディナーのフルコースには、ベッドインも組み込まれてるもんだ」

(……確かに)

全ての男がそうだとは言わないが、女性に関しては下半身で物を考えるのが〝男〟というものだと、これまでの人生で少し学んだ。眉間の皺が無意識に深くなる。

「ディナーに付いていってレイプされたとしても、訴えるには相手が悪いな」

あのハジという男なら、権力で揉み消すくらいわけもないだろう。
裁判にしたって、陪審員は彼の味方だ。
大体、食事の誘いに乗った時点でこちらにも少なからずその気があったと思われる。そうなっては、地獄に突き落とされるのは私のほうだ。

考えて、恐ろしくなった。
世界中に味方がいるような相手と対決しようなんて無謀すぎる。

「……策は?」

仕事の上司に相談するような内容でもないが、グラムに頼れない以上、彼に助けを請うしかない。
ボスは少し考える素振りをして目を逸らすと、やがてデスクの鍵付きの引き出しを漁り始めた。
整頓されていないのか、がさがさ漁りながら発せられた言葉は、至極単純明快。

「逃げろ」
「は?」

思わず間抜けな声が出る。

「逃げろ。とにかく逃げろ」

あまりにも原始的且つ抽象的なアドバイスだ。納得いかない。

「捕まるなよ」

こちらの表情を窺うようにボスが睨んできた。
そんなことを言われても。


「捕まる前に逃げろ。怪しまれてもいい。とにかく逃げろ」

その真剣な声に、思わずたじろいた。
もしかしたら、私が考えているよりずっととんでもないものを相手にしているのではなかろうか。


「追われたら…?」

逃げたら、追われる。当然の摂理だ。

「奴は追わない」

しかしボスは自信ありげにそう切り返してきた。

「奴はスマートじゃないやり方は好まない。逃げた女を追ったこともない。……多分な」

多分?
ボスの言葉に、慰められるどころか更に不安が増した。
これではなんの為にボスに縋ったのか解らない。

「ほら」

そうして人目を憚かって差し出されたのは、一丁の拳銃。

「四五経口だ。特別に貸してやるから、護身用に持ってろ」

私は表情を固くして、拳銃を受け取れないまま立ち尽くしてしまった。
たかが一人の男に対して、ここまで警戒する必要があるのか。

「ハジにはこれだけする必要がある」

考えを見透かされた。
ボスは相変わらず、真面目な顔で私を見ている。

「撃てるか?」
「無理です」

情けなく答えた私に、ボスは親切にも銃の撃ち方を教えてくれた。
こんなものの使い方なんて、一生知りたくなかったけれど。

「当てるなんて考えるな。あくまで脅し道具だ」

最後にそう念を押された。
面倒見の良い男だと思ってはいたが、ここまでしてくれるとは思ってもみなかった。
親切過ぎて逆に疑いたくなる私は嫌な大人だ。

「……ありがとうございます」

しかし、縋る為の藁は手に入れた。
ボスが居なければ、きっと今より途方に暮れていただろう。

「大事な部下の為だ。健闘を祈るぞ」

茶化しながらも感慨深い表情を浮かべた上司を見やり、私はもう一度礼を口にする。
口煩い禿げた中年親父に、初めて感謝した日だった。

ボスのオフィスを後にして、私はゆっくり時間を掛けて外に出た。
鞄の中にある異物は九ミリの拳銃。
合衆国に渡ってからは、銃を物珍しく見ることもなかったが、まさかそれを使うことになるとは思ってもみなかった。

(弾丸なしの護身用の銃は、……引き出しに入れっぱなしだし)

平凡な一般市民が、元軍人のニューヨーク市警に拳銃一丁で立ち向かうなんて笑える。

(安いヒーロー映画じゃあるまいし)

祈る気持ちで、バッグの中の硬質に触れた。
この後のことを考えると吐きそうだ。
一体、私はどうなってしまうのだろう。


「――やぁ、リナ」

電灯の柱に凭れていると、渦中の人物が現れた。
輝かんばかりのアルカイックスマイルが憎たらしい。

これはもう、覚悟を決めるしかない。




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