今日、世界は終わるのだ


シャワーを済ませ、放置していた血塗れのコートをバスタブに投げ込んだ。
寝室のベッドでは、荒く浅く呼吸を続け眠る男。
自分でも、一体なにがしたいのか解らない。

ただ、なんとなく。

(寂しくて?)

「……アホらし」

情けない考えを焼き殺す様に、煙草に火を点けた。
枕の横に置いていた灰皿に、吸い殻が二本虚しく横たわっている。

「……コイツ」

吸い殻が一本多い。
男の微かに開いた口に鼻を近付ければ、私愛用の煙草の匂い。

「どこまでも厚かましい」

ソファに腰掛け、部屋の隅に置かれたピアノに目をやる。
サボりは初めてじゃないけど、毎日弾くことが習慣づいていたせいで違和感は否めない。
幸い、明日は仕事が休みだ。
二日分、存分に弾かせて頂こうか。

(あぁ、でも病人がいる……)


そんなことを考えていると、暗い部屋に呻き声が響いた。
それを辿るようにベッドへ腰掛ければ、暗闇に慣れた目が外からの淡い夜の光に照らされた顔を容易に映す。
皺の寄った眉間と荒い息は、私に同情させるには充分な程で。
怪我した時の夢でも見ているのだろうか。
頬に張り付いた金髪を払い、冷たい掌を額に当てた。

「……っ、」

ふいに思い切り唇を噛みしめたので、私は慌てて血の滲む唇に手を伸ばす。
血の気の失せた柔らかい唇は、簡単に傷ついてしまう。
私自身、唇に傷を作るのが大嫌いだ。その時の傷が痛いだけじゃなく、後々口内炎になって更に私を苦しめる。
荒い息を吐く口を指で開かせようと力を入れると。

「いっ」

噛まれた。しかも、容赦なく。
千切られそうな勢いで噛みつかれた指は解放されず、その肉に歯を食い込ませている。

――痛い。

これは、故意に噛みついている。
私の指ではなく、夢の中の誰かの指を、だ。

ギリリ。形の良い歯に肉を痛めつけられ、無意識に小さく悲鳴を上げた。
その小さな悲鳴に、眠っていた男が目を覚ます。
焦点の合わない視線が私を認識すると、やっと指を捕らえていた力が弱まった。
ゆっくり引き抜いた指の深い噛み痕には血が滲み、地味に神経を刺激する痛みと傷痕に、無意識に眉が寄った。
疲労と悪夢に青ざめていた男が、皮肉に嗤う。

「寝てる男の、口ん中に指突っ込むのが趣味か?変態女」

軽口を叩く男を冷ややかに見下ろすと、わざと傷を押さえるように乱暴に顎を掴んでやった。
魘されて疲労を露わにしていた顔が、今度は苦痛に歪む。
歪むそれも魅力的だと見惚れながら。

「ねぇ、あんたは〝誰〟?」

深い切り傷を親指で嬲りつけて、その顔を覗き込んだ。
互いに吐く呼気が絡まるまで、距離を詰めて。

「……テメェには、関係ねぇ」

闇に濡れた灰緑が鋭い。
生意気な表情を、私は馬鹿にするよう嘲笑を漏らした。

確かに関係ない。知りたくもない。

「……あんたは、口ん中に指を突っ込まれる様な真似でもしたわけ?」

ただの虐めであることは承知の上で。
ピアノを弾く指に傷を付けられた仇くらいはとらせなさいよ。
目の前の男は、私の指から逃れたくてもできない無力な自分に苛立っているらしい。

「ねぇ、あんた、なにしたの?」

ギリ、と爪を食い込ませる真似事。更に深く歪む唇の、真新しい傷に舌を這わせた。

「……離せ、このゲス女」

全く口の悪い怪我人だ。
自分の置かれている状況を把握しているのか疑いたくなる。
私が看病しなけりゃ、傷が膿んで苦しんで苦しんで死ぬことになるのに。

「ゲスで結構。そのゲスに生かされてるあんたはゲス以下だ」

言えば、男は悔しそうに眉を顰める。
いちいちバカ正直に反応を示す男に嗜虐心が萎えた。
顎を掴んでいた指を離すと、男は汚い言葉を短く吐き捨てる。

――生意気。


「今度から夢に魘されて唇を噛むなんて真似、しないことだね」

私の言葉に、男は目を丸くしてバツの悪そうな表情を浮かべた。
さ迷う視線がゆらりと動いて、私を見据える。

「ワリ、……」
「別に」

下手に虐めるより、こっちの方がずっと効果があったらしい。
出る杭は打たれるというかなんというか。

「おやすみ」

私は窓際のソファに身体を投げ出して、小さめのブランケットにくるまった。
男に向けている背中に、衣擦れの音がぶつかる。

「悪かった」

指の傷に対してかベッドを取ってしまった事に対してか、はたまたコートのことなのか。

――全部かな。


「わる、い……」

三度目の謝罪は尻すぼみだった。
続けて雨音に混じる不規則な寝息に、私も目を閉じる。


サァアアアア…――。
強くなるばかりの雨音は、私を過去に引き留めようとしているみたいだ。



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