プラチナの誘惑
「昨日は大丈夫だったか?」

無理に意識を仕事に集中させて、不安から逃げていた俺の後ろから、落ち着いた声が聞こえた。

「小椋さん…」

「病院に迎えに行ったんだろ?…森下…」

「もう大丈夫です。

でも…迎えに行かなかったら…いえ。
行かせてもらってありがとうございました」

多分、一人で病院を後にしていたら、彩香の心には取り返しのつかない傷が残っていた。
俺の中に優美が一番に居座っていると誤解したままに柚さんへの心配を抱えて。

一人で落ち込んで悩んでいたに違いなくて。

そんな彩香を抱きしめる事があの時にできて良かったと思う。

「…そっか。日和も…
相模も気にしてたからな」

ふっと穏やかに呟く小椋さんには、詳しく話さなくても、大体はわかっているようで、詳しく聞こうとはしなかった。

「そういえば…」

はっと振り返って見る視線の先には。

「…」

誰も座っていない机。

「相模は病院だ。
連絡が入るだろ…そろそろ」

小椋さんの視線も、相模さんの机に向かっていて、気付くと…飄々と緩く立っていても。
両手はぐっと握られていて、色が変わるくらい強い力…。

相模さんは、柚さんの出産を見守っている…。
そう実感すると、俺の身体にも慣れない力が入って動けない。

時計を見ると11時を過ぎたところ。
もう、そろそろ…?

そう思った瞬間、傍らに立つ小椋さんの携帯が鳴った。

途端にこれでもかと思えるほどに鼓動は跳ねて、気のせいかフロア全体も静かになったよう。

「もしもし相模か…?」

不安げな声が静まりかえったフロアに響き、誰もが動きを止めた。

「…で…柚さんは…?」

小椋さんの声しか聞こえない…。
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