午前0時の誘惑
◇◇◇
「いつものところでよろしいでしょうか?」
乗り込んだ車は、よくある外国産の高級車。
いつでも手入れが行き届いていて、汚れているのを見たことは一度もない。
黒いボディは、そこでメイクができるんじゃないかというほどピカピカに磨き上げられていた。
そのバックミラー越しに、黒川さんが問い掛ける。
軽く頷くと、静かに車が発進した。
少しだけ窓を開けると、ぼんやりした頭を冷ますには持ってこいの、ひんやりとした風が髪を巻き上げていく。
街はすっかり目覚めていた。
どことなく現実離れした海生との時間が、少しずつ遠ざかっていく。
海生は今頃、何をしているんだろう。
ふとそんなことを思う。
実のところ私は、私の元から去ったあとの海生のことを何も知らない。
それどころか、私と過ごすあのスイートルームでの時間以外のことは何もかも。
どこの誰なのか。
名前と年齢以外のそんな基本的な情報さえ、私は聞かされていなかった。
ただ、海生の立ち居振る舞い、身に着けている物、黒川さんという存在。
そういったことを合わせて考えると、一般庶民の私とは、かけ離れたところにいる人に違いなかった。