I love you(短編集)
墨が乾き、もうかすれた線しか描けない毛筆の筆をぎゅっと握り、夜の闇のような真っ黒なワンピースの背を丸め、歯を食いしばり、それでも決して原稿からは目を逸らさない。
電気をつけず、飯も食わず、一日中部屋にこもって狂ったように手だけを動かしているその姿は、もはや人間ではなく。
血走った二つの眼(まなこ)は、文字という、紙という餌をむさぼる野獣のようだった。
僕はただぢっと、襖に背を預け、そんな彼女の横顔を見つめる。
ふと、妙な匂いが鼻をついて眉を顰めた。すぐに彼女の匂いだとわかった。そういえば、暫く風呂にも入っていないのだろう、窓から差し込む月明かりに照らされる黒く長い髪は、不自然にてかっている。
不意に、ぐう、っと云う、女性の声とは思えない程低い唸り声が耳に届き、僕ははっと目を見開いた。
黒い背中が、そのままばたりと横に倒れて――僕はゆっくりと彼女に近づき、隣にひざまずいて顔を覗きこんだ。
やせこけた頬と紫の唇。顔色は、きっと月明かりのせいだけではなく、青白い。
僕が愛した少女の姿は、もう何処にも無かった。
机の上、広げられた一枚の原稿用紙を見やる。
かすれた線がいくつも放射状に伸び、それはもう文字ですらない。ところどころ血が擦り付けられたような茶色い跡が見え、僕は堪えきれずに、わらった。
喉を鳴らし、唇をいびつにゆがめ、ただひとり、暗い部屋の中でわらい続けた。
こんなときは、泣いてしまえばよかったのだ。
そんなことはわかっていたが、泣けなかった。
涙ではなく血が出た。
無理矢理押し上げた口の端から、鉄の味が滲みでた。
どうしようもなくかなしかった。
どうしようもなくいとしかった。
狂った彼女を、僕を、僕は、わらった。