アリスズ

 卿の屋敷の門の前で、景子は足を止めてしまった。

 油の瓶は、アディマがしまってしまい、彼女の髪は何も変わっていなかったからだ。

 こんな髪で、卿の前に出ることは、とても恥ずかしいことなのだと──子供に教えられたのである。

 そのショックから、まだ景子は立ち直れていなかった。

 前にあの老人にあった時は、幸いにもおばさんに綺麗に整えてもらっていた時で。

 少しは、いまよりはマシだったのだろう。

 年甲斐もなく恥ずかしいが、髪を編んだ方がいいに決まっている。

 そんな迷いいっぱいの景子をよそに、使用人は門を開けて彼らを招きいれるのだ。

 あ。

 ど、どうしよう。

「ケーコ?」

 後方の異変に気づいたらしく、アディマが振り返って彼女を呼ぶ。

 でも、足を踏み出せない。

 そこで菊が、あははと突然笑い出した。

 景子が、ぎょっとしてしまうほど。

「若さん…油と櫛!」

 菊は快活に、しかし、独特の呼びかけをする。

 神殿に行ったおかげか、彼女は『櫛』という単語をマスターしていた。

 アディマは、自分が呼ばれていることに気づくのに、少しかかったようだが、荷物の中から、言われたものを取り出す。

 それを、菊は受け取るや、景子の元へと戻ってきた。

「行こう…景子さん」

 そして。

 彼女は、屋敷とは逆の方向へと、景子を連れて行こうとするのである。

「え? え? 菊さん?」

 ぽかんとする男どもを置いて、二人の足は町の方へと向かっていた。

「アディマたち、心配するよ」

 後ろを振り返りながら言うが、菊は笑うだけだ。

「油と櫛を持った女が何をするかなんて…誰が考えたって分かるだろ?」

 心配しやしないさ。

 菊は片方には景子の腕を、もう片方では櫛や油の瓶を珍しそうに眺めながら歩く。

「大丈夫…梅の髪でさんざん遊んでたからね…意外と指先は器用なんだよ」

 誰もいない、細い路地に連れ込まれる。

 菊は──櫛をくわえて、瓶のふたを開けたのだった。
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