アリスズ

「ケイコ…何かあったかい?」

 苦笑されて、景子はびっくりした。

 無意識の内に、アディマをじーっと見ていたのだ。

「あっ…いや、何もっ」

 宿を出ながら、景子は顔の前で両手を振った。

 それ以上問われなかったが、何か言いたげにしばし見つめられる。

 ああー、そんなに見ないでー。

 イデアメリトスなるものが、少しずつ分かってくるにつれ、景子はどんどん複雑な気持ちになってゆくのだ。

 知らない間の彼女は、とても無謀なことばかりをしていた。

 お忍びで旅をしているアディマに、その名を名乗らせた。

 命を狙われている真っ最中に、だ。

 こんなにのんきな大馬鹿者は、どこを探してもいないだろう。

 隣で眠り、言葉を習い――貴重な魔法を使わせた。

 だが、景子はイデアメリトスを知ってしまったのだ。

 言葉を知り、世間を知り始めた。

 だから、分かってきた。

 この都へ向かう復路は、どんどんアディマが遠くなる旅になるのだ、と。

 彼のために、出来うる限りのことはしたいと思う。

 ただ。

 ただ、彼が一度だけ口にした戯言は、いたずらなそよ風ひとつで吹き飛んでしまうことだけは、よく分かったのだ。

 梅のいる領土が、近くなってきたことを聞きながら、景子はそんなことに、思いを巡らせていた。

 夢物語に踊らされる年が過ぎ、景子が地に足をつけ、根をおろしたのは、いくつになってからか。

「ケイコ…少し話をしよう」

 休憩の時、アディマにそう誘われた。

 自分でも、自身の感情の流れに驚くほどだ。

 彼に、気づかれないはずなどなかった。

「ええ」

 景子は、それに笑顔で応じる。

 ただ、二人きりにはなれない。

 ダイが、離れないからだ。

 でも、景子はもう、誰が聞いていてもよかった。

 深呼吸したら、落ち着いた。

「ふふ…私ね、アディマに言ってなかったことがあるんだ」

 リサーが、聞き耳を立てている。

 景子は、笑顔を浮かべた。

「私ね…31歳なの」

 そよ風が――吹いた。
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