アリスズ

 夜。

 トーとの旅路の夜。

 人の気配に、菊は足を止めた。

 彼も足を止めるが、その身に緊張を走らせる様子はない。

 ふぅっと顎を巡らせて、まっすぐに一点を見つけるのだ。

「兄さん…庵を出たんですね」

 一房だけ白い髪をした男が、藪の中から現れた。

 呼び方からすると、弟だろうか。

 しかし、見た目は明らかにトーよりも年上の姿をしていた。

 既に、40は越えているように思える。

「お前は、まだあんなところにいるのか」

 だが、兄の言葉は──優しいものでも懐かしいものでもなかった。

「いますよ。そして、何度でも兄さんを説得しに来ますよ」

 弟の視線が、ちらりと菊を見る。

「大体…何故、この者と一緒にいるんですか。あの太陽の子と、一時一緒にいた者ではないですか」

 鋭い声。

 声の中に、敵意がはっきりと混じる。

 ああ。

 御曹司のことを嫌っているのは、そこからありありと分かる。

 そして、菊が同行していた者のことも、知っているのか。

「それが…どうかしたか? 大体、そんなにやりたければ、お前が自分でやればいいだけのことだろう。私を呼ぶ必要などない」

 だが、あっさりとトーに斬り捨てられ、更に痛いところをつかれたのか、弟はぐぅっと息を飲んだ。

 夜であっても、その頬が微かに興奮を帯びたことに気づく。

「悔しく、ないのですか!」

 トーを腰抜け呼ばわりする勢いで、彼は強い言葉を夜空に向かって吐き出した。

 それを、兄は虚無の瞳で見つめ返すだけだ。

「ない」

 もはや。

 弟と話すことさえ何もないと言わんばかりに、トーは歩き出す。

「兄さん!」

 無粋に叫ぶ弟の横を、通り過ぎる。

 手を伸ばそうとする彼を、トーは右腕をわずかに立てる動きだけで制した。

 彼もまた──手で語れる者か。
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